玄関から始まる天国(あいさつの仕方)

[要約] 同じ日に教会の扉を開けた二人の定着を分けたのは、説教ではなく、先に近づいた一人の人でした。真の御父母様は、万民をわが子のように愛することがすなわち神様のように愛することであると語られました。新しい食口を迎えることは牧会者の役目ではなく、私たち皆の務めです。私たちを阻むのは、「うちの教会はすでに温かい」という錯覚、見知らぬ人への負担感、「誰かがやるだろう」という先送りです。定着は、何人もの友ができたときに成し遂げられます。三つのことを決断しましょう。神様にお会いしたように喜んであいさつすること、初めて来られた方に先に近づくこと、新しい人の名前を覚えて呼んで差し上げること。互いを神様のように迎えるその場所、天国は玄関から始まります。

すべてのあいさつの中で、真っ先にすべき最上のあいさつは、どなたから始めるべきでしょうか。目には見えませんが、天の父母様です。週の初めの聖日、明け方の家庭敬拝式から天の父母様にごあいさつを申し上げなければなりません。そして毎日、起きるとき、出かけるとき、帰ってきたときに、真の御父母様の御尊影の前であいさつを申し上げてから出発すべきです。これがすべてのあいさつの筆頭であり、これが最初の出発となるならば、万事が順調に運ぶことでしょう。神様に対してもそうですが、人に対しても、最初のあいさつが崩れれば万事が崩れます。本日は、人と人との間のあいさつの仕方について御言を申し上げたいと思います。

今日は、二人の話から始めたいと思います。同じ日の同じ時刻に、それぞれ違う教会の扉を開けた二人の話です。一人目の人は、何週間もためらった末に、ようやく勇気を出しました。クローゼットの前で長いこと行きつ戻りつし、駐車場に車を停めてからも十分ほど座ったまま、やっと勇気を出して入ってきました。扉を開けると人が座っていましたが、誰も彼を見ませんでした。人々は互いにひそひそと、仲むつまじく見えました。席に着こうとすると、どこに座ればよいのか迷いました。結局、いちばん後ろの列の端に座りました。賛美も恵み深く、御言も良いものでした。ところが礼拝が終わってからの十分間、彼に声をかけた人は一人もいませんでした。彼は静かに出て行きました。そして二度と来ませんでした。

二人目の人も、同じように震える手で扉を開けました。ところが扉の前に立っていた一人が、目を合わせて微笑みました。「ようこそいらっしゃいました。初めてお目にかかると思います。私は金執事です。」それだけでした。大したことばでもありませんでした。それなのに、礼拝の間じゅう心がずっと落ち着いていました。礼拝が終わると、その人がまた近づいてきました。「今日はいかがでしたか。私とお茶でも一杯いかがですか。」そして、そばにいた二人をさらに紹介してくれました。翌週、彼はまた来ました。そして今、彼は私たちの隣の席に座っています。

食口の皆様、二人の違いは何だったでしょうか。説教の違いではありませんでした。施設の違いでも、賛美の違いでもありません。違いは、ただ一人の人でした。先に近づいて自分の名前を差し出した一人の人です。今日、私は皆様にお尋ねしたいのです。私たちの教会の扉を初めて開けた人は、この二つのうちどちらの経験を抱いて帰っているでしょうか。私たちは互いを信徒とは呼ばず、家族のように食口と呼びます。ところが、その尊い呼び名を持ちながらも、近ごろの私たちは、新しく来た人を迎えることにたいへん不慣れになってしまいました。ですから、今日の御言の題は「玄関から始まる天国」です。

(真の父母経 一九七一年十一月二十一日)「どのような社会であっても、年上の人に接するときは、わが祖父、祖母であり、わが父、母であり、わが兄、姉であると思うことのできる心情をもたなければなりません。そのような心情が普遍化し得る環境が広がる所であるならば、そこは間違いなく天国です。そのように生きる人は、どこへ行っても反対を受けません。彼がどこへ行こうとも、神様は共にいてくださるのです。」

真の御父母様は、新しい人を迎える私たちの姿勢を、実にはっきりと明かしてくださいました。どのような社会であっても、年上の方にお会いしたなら、わが祖父、祖母として、わが父、母として、わが兄、姉として思うことのできる心情をもたなければならない、ということです。そして、そのような心情が普遍化する所であるならば、そこは間違いなく天国であると語られました。この御言を静かに見つめてみてください。真の御父母様は、天国をある建物や制度として説明されませんでした。人に接する心情が変わったその場から天国が始まると語られたのです。ですから、今日、私たちの教会の玄関で、初めて来られた方をどのような顔で迎えるのか、それがそのまま、ここに天国が臨むか否かを決める事柄なのです。私たちは今、玄関で天国を建てているのです。

(真の父母経 一九七九年一月一日)「家庭教会の働き手は、神様のように教えることができ、神様のように愛することのできる人でなければなりません。父母の立場で愛することのできる教会、そのような人、そのような国民、そのような世界人類となる日には、神様が地上のどこにでも行幸されて天国となり得るのです。」

(天聖経 一九九二年一月二十日)「万民を子女のように愛する人は、神様のように愛しているのです。」

家庭教会の働き手は、神様のように愛することのできる人でなければならないと語られます。神様のように愛するということばが、あまりに難しく聞こえるでしょうか。万民を子女のように愛する人、その人こそが、神様のように愛する人です。子女が久しぶりに家に帰って来ると、私たちはどうするでしょうか。門の前まで出て行きます。手を握ります。ご飯は食べたのかと尋ねます。帰るときには門の外まで見送りに出て、車が見えなくなるまで手を振ります。誰かが教えてくれなくとも、私たちは子女をそのように愛をもって迎えます。新しい食口を迎える仕方も、まったく同じです。私たちはすでにその方法を知っています。ただ、その心をまだ見知らぬ人にまで開けずにいるだけなのです。

ですから私は今日、この一つのことを食口の皆様の心にしっかりと植えて差し上げたいのです。新しい食口を迎えることは、担当牧会者の仕事ではありません。今この場に座っている私たちの務めです。私たち皆が神様をお迎えする者だからです。神様をお迎えする者は、いつでも神様をお迎えする心の準備ができていなければなりません。そして、私たちが待ち望んできた神様は今日、初めて来られたその方の顔をして来られるのです。

皆様、覚えておられますか。皆様が初めてこの教会の扉を開けた日を覚えておられますか。どこに座ればよいのか分からずきょろきょろしていたあの瞬間、礼拝の順序が分からず隣の人をちらちらと見ていたあの瞬間をです。あのとき誰かが皆様に喜んで近づいてくれたからこそ、皆様は今ここに座っておられるのです。誰も関心を寄せてくれなかったなら、皆様もこの席にはいらっしゃらなかったでしょう。

真の御父母様は、私たちに「ために生きる」生き方を教えてくださいました。ために生きる生き方は、大きな事柄から始まるのではありません。目の前の一人に先に近づくところから始まります。神様もそのようにされました。私たちが神様を訪ねて行ったのではなく、神様が私たちを訪ねて来てくださいました。それが天の愛です。愛は趣味ではありません。愛とは、私が受けた愛を、体をもってもう一度書き記していく営みです。

「うちの教会は温かい」という錯覚(一分の動画)

動画で御覧になったとおり、私たちが必ず越えなければならない壁が一つあります。その壁は無関心でも冷たさでもありません。「私たちはすでに温かい」という、私たちだけの錯覚です。教会文化を研究するある方が、こういう話を聞かせてくれました。数千の教会を訪ねる中で最も多く聞いたことばが、「うちの教会は本当に温かい教会です」だったというのです。ところが、同じ教会を初めて訪ねた人たちに尋ねると、答えは正反対だったといいます。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。答えは簡単です。私たちは互いに、本当に温かいからです。礼拝の後に分かち合うあの笑い、喜んで迎え合うあの温もりは、すべて本物です。

ただ、その温もりが向かう方向が問題なのです。その温もりは、すでに互いを知る人々の間だけで巡っています。初めて来た人の目に、私たちの親密さがどのように映るか想像してみてください。「あの人たちは互いに近しいのだな。私が入る場所ではないな。」私たちが熱く愛を分かち合えば分かち合うほど、円の外に立つ人にとって、その円は越えがたい壁となります。

何が私たちを新しい食口に近づけなくさせるのか

一、見知らぬ人への負担感です。自分の知らない人に先に近づくことは、誰にとっても負担です。礼拝の後は、一週間会えなかった食口に会う喜ばしい時間です。その時間を措いて見知らぬ人に近づこうとすると、足が動きません。しかし、知った顔一つない場所でその方がどれほど寂しいかを一度でも推し量ってみれば、私の負担感など何ほどのものでもありません。

二、「誰かがやるだろう」という思いです。これが最もありふれていて、最も致命的です。教会に百人がいても誰もその人に声をかけない理由は、百人全員が「連れて来た人がやるだろう、そうでなければ誰かがやるだろう」と思っているからです。しかし、その誰かが、まさに皆様であることを願います。

マタイによる福音書七章十二節、私たちが黄金律と呼ぶ御言です。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」その人の立場に一度立ってみなさい、という御言です。初めて来られた方の心を想像してみてください。その方はたいてい、人生の意味をもう一度探したいとき、何か新しい変化が切に必要なときに教会を訪ねて来られます。ですから、私たちの前に立っているその見知らぬ方は、ただ通りすがりに立ち寄った人ではありません。それぞれに複雑な事情を抱えて来た人かもしれません。ですからその方は、私たちが思うよりもはるかに敏感です。初めて来られた方々が最も寂しかったと語ったことを聞いてみてください。どこに座ればよいのか迷っているのに、人々が皆自分を見つめているようで、針のむしろのようだったといいます。礼拝が終わって扉の前であいさつを交わして通り過ぎるけれども、知った人はいません。食堂に行くと、自分の隣に座るのを負担に思っているようだったといいます。食口の皆様、これは信仰の問題ではありません。配慮の問題です。私たちはごく些細なことで人を失っていたのです。

もう一つ、これとは正反対の問題もあります。行き過ぎた歓待です。初めて来られる方の半分以上は、慎重に見極めようという心で来られます。このような方々にとっては、私たちの熱い歓待がかえって負担になります。真の歓待とは、自分のやり方で喜ぶことではなく、相手が心地よくいられるように距離を調節して差し上げることです。

ですから、新しい人を迎える姿勢は技術ではなく、心の問題です。もし私が新しい人であったなら、人々に私へどのようにしてほしいと願うでしょうか。私であれば、熱烈な歓迎式は必要ありません。私の存在に気づいてくれる一つのまなざし、そばに一緒に座ろうとしてくれる一つの配慮があれば十分です。

あいさつの仕方

人に会って真っ先にすることが、あいさつです。人が生まれて最初に学ぶ礼儀もあいさつです。子どものいる家に行くと、親が真っ先に教えるのがそれです。「大人にごあいさつしなさい。」すると子どもはおなかの前で手を組み、頭を下げます。韓国語であいさつを意味する「인사(人事)」は、人という字に事という字を書きます。人であるならば必ずすべきこと、という意味です。あいさつは「私はあなたに気づきました」という最も明確な合図であり、相手の心の扉を開いて入っていく最も速い道です。

あいさつのとき最も大切なのは表情です。明るい顔でする「こんにちは」と、無表情でする「こんにちは」は、決して同じあいさつではありません。顔がこわばっていれば、相手は無視されたと感じます。韓国語の「顔(얼굴)」は、人の魂(얼)が込められた洞(굴)という意味だといいます。明るい表情は一銭もかかりませんが、その値は計り知れないほど大きいのです。

あいさつのときの体の角度は、おおよそ三つに分かれます。

区分 姿勢 このようなときに
目礼(約十五度) 目を合わせてから軽く頭を下げる 廊下・階段・エレベーター、お手洗い、よくお会いする食口、礼拝中に静かに通り過ぎるとき、一度あいさつをした後に再びお会いしたとき
普通礼(約三十度) あいさつのことばとともに腰を曲げる 扉の前で迎えるとき、初めてお会いする方を迎えるとき、見送るとき
丁重礼(約四十五度) 腰を深く曲げて礼を尽くす 尊い方をお迎えするとき、深く感謝するとき、丁重にお詫びするとき

順序は同時でも構いませんが、あいさつのことばが先で、体は後です。頭を下げてから話すと、声が地に埋もれてしまいます。

あいさつは互いに先に

生きていると、知っている人のようだけれども確信が持てず、向こうもこちらをちらちら見ながら、そのまま通り過ぎてしまうことが多いでしょう。互いにしようかどうしようかとためらっている間に、もう通り過ぎてしまっています。「知っている方のようだったのに……。」残るのは後味の悪さだけです。あいさつは一度逃すと、二度目がはるかに難しくなります。ですから、目が合ったその瞬間、たとえ知らない間柄であっても、先にしてください。

ある方は、まったく知らない人であったのに、どこかでお会いしたような気がして先にあいさつをしたそうです。「いらっしゃいませ、寒いでしょう」と言ったところ、「私を御存じですか」と聞き返されたそうです。しまった、知らない方だったのだと思いましたが、慌てることなく「おそらく私たちは前世から続く縁だったのでしょう」と笑って答えたそうです。すると、その人もすぐに知り合いのようになったといいます。あいさつは、先にして損をすることはありません。

親しく語り合う

さて、あいさつの次が問題です。あいさつがあいさつだけで終わってしまえば、その人は依然として一人です。あいさつを済ませたなら、親しい対話へとつなげていかなければなりません。

一、うれしさが先、関心がその次、用件が最後です。店に入るなり「お探しのものはございますか」と用件から尋ねるあいさつは負担です。同じように、教会の扉を入ったばかりの方に「どうしていらっしゃいましたか。どなたの紹介で来られましたか。お名前は何とおっしゃいますか」と尋ねれば、負担をおかけします。順序を変えてください。「こんにちは、初めてお目にかかると思います。私はこの教会に仕えている金執事です。」私が先に自分を開いてこそ、相手も心を開きます。そして相手が名前を教えてくださったら、「○○様、お会いできて本当にうれしいです」と、その名前を呼んで差し上げてください。人は自分の名前が呼ばれるとき、初めて認められたと感じるのです。

二、「うれしいです」の後に、共感できる一言をもう一つ添えてください。相手が「はい」と答えられる一言で十分です。「外は暑いでしょう」「はい」、「お席へ御案内しましょうか」「はい」。このように相手が二、三度ごく軽く共感できてこそ、その次に本当の対話が開かれます。そして答えが返ってきたら、その答えを糸口にして次の質問へとつなげてください。「引っ越して来て間もないのです」と言われたら、「ああ、そうなのですね。もう慣れられましたか」と関心をつなげていけばよいのです。

三、話すよりも聞いてください。人々が最も心地よく感じる相手は、話の上手な人ではなく、よく聞いてくれる人です。体を相手のほうへ少し傾け、うなずき、対話の途中で携帯電話を見ないでください。「そうだったのですね」「そのお気持ち、よく分かります」といった短いことばで十分です。特に気をつけるべきことがあります。「私もそういうことがあったのですが」と話題を自分に引き寄せないこと、そして軽々しく助言をしないことです。その方は答えを聞きに来られたのではなく、聞いてくれる人を求めて来られたのです。ことばの温度も忘れないでください。こわばった顔と単調な声で聞いていれば、義務感で座っている人のように見えます。ことばにも必ず体温が乗っていなければなりません。

四、別れのあいさつを忘れないでください。最初のあいさつは上手にできても、最後のあいさつを逃してしまう場合が本当に多いのです。玄関では喜んで迎え、礼拝が終わればそれぞれ散っていきます。しかし人は、最後の場面を記憶します。見送りが、次の主日の足取りをつくります。余裕があれば二、三歩先に出て扉を開けて差し上げながら、「来週またお会いしましょう」と言ってください。ここにも「はい」と答えられる一言を添えるとよいでしょう。「雨が降っていますから、お気をつけて」「はい」、「どうぞお気をつけてお帰りください」「はい」。

そして、定着は一日で決まるものではありません。いくつもの研究が共通して語っていることがあります。教会に残る人は、初めの数か月の間に五人から七人の本当の友をつくり、去る人は二人にも満たないというのです。ですから、何人もの人が共に友になって差し上げなければなりません。そして一週間後に、短いメッセージを一通送ってください。「○○様、先週はお会いできて本当にうれしかったです。今週もお会いできるでしょうか。私がよく御案内いたします。」この短い一文が、その方の次の主日もまた教会へと向かわせます。私たちの食口が労苦して伝道しました。祈って差し上げ、食事をごちそうし、何か月も説得して、ようやく一人を連れて来ました。ところが、その人に誰も声をかけて差し上げられず、その人は静かに出て行きました。その人のせいではありません。私たちは伝道の門は開けておきながら、裏口から出て行かせていたのです。

そして、その裏口を開けておいたのは、私たちの悪意ではなく、ためらいでした。しかし今日、私は希望を見ます。これは直すことのできる問題だからです。私たちに愛がないのではありません。新しい人に向かう熱い心は、私たちの内にあります。足りないのは習慣です。そして習慣は変えることができます。恥じることはありません。私たちは皆、不慣れです。不慣れであることは罪ではありません。不慣れなままとどまることだけが問題なのです。

私は、私たちの教会がこのような教会になることを夢見ます。扉を開けて入って来た人が、誰かと目を合わせる教会。礼拝が終われば、知っている人より知らない人を先に探す教会。自分の名前を先に名乗る教会。一人で座っている人が、三分以上一人でいることのない教会。そのような教会は、幾人かの責任分担や、よく練られたプログラムによってつくられるのではありません。今日この場に座った一人一人が、神様の愛をもって主人意識をもつときに、初めてつくられるのです。

三つの決断

一、神様にお会いしたように喜んであいさつしましょう。知っている人であれ知らない人であれ関係ありません。これ一つが習慣になるだけでも、私たちの教会で疎外される人はほとんどいなくなります。

二、初めて来られた方に先に近づきましょう。今日の礼拝が終わったら、知った顔よりも見知らぬ顔を先に探して差し上げてください。

三、新しい人の名前を覚えましょう。名前を呼んで、探して差し上げてください。「○○様、またいらっしゃいましたね。本当にうれしいです。」その一言で、その人は自分がこの共同体に属していると感じ始めます。

「互いを神様のように迎える所、そこが天国です。」真の御父母様のこの御言が、私たちの教会の玄関から成し遂げられますことを、真の御父母様の御名によって祝願いたします。アージュ!

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