[要約:神観が人生観と生活のすべてを決定するという前提から出発し、まず世の中の神観を研究してみましょう。イスラム教は人間を服従する僕として、キリスト教は養子として立て、仏教・儒教・無神論もまた人間の尊厳の絶対的な根拠をもつことができませんでした。原理は、因果法則と似る法則によって神様を知ることができると教えます。万物は例外なく、陽性と陰性、性相と形状という二性性相として存在します。第一原因である神様は、本性相・本形状、本陽性・本陰性の中和的主体であられ、本性相は喜ぼうとする「心情」であるがゆえに、神様は能力があり余って創造されたのではなく、愛する対象を創造されたのです。陽性と陰性は横的に絶対平等であり、性相と形状は二つではなく一つであるため、唯心・唯物の論争を終わらせる唯一論です。結論として、二性性相の神様こそが「天の父母様」であり、基元節にその本来の名前をお返ししたのです。人間は神様の見える体であり、この神観は男女の葛藤・人間の尊厳・宗教の葛藤・環境・AI時代の答えとなる真の神観です。]
愛する食口の皆様、きょう私は、私たちの信仰の最も底に据えられている礎石を、もう一度確認したいと思います。誰かが皆様に「あなたが信じる神様は、どのような方ですか」と尋ねたら、何と答えられるでしょうか。この問いにはっきりと答えられる人と、答えられない人の人生は、まったく違います。神観が人生観を決定し、人生観が生活を決定し、その生活が永遠を決定するからです。私たちの天の父母様聖会は、世の中の数多くの宗教の中の一つではありません。ところが、私たちの子女の中にも、そのような信仰観をもっている青年が意外に多いのです。私たちがつかんでいるこの原理は、数万の教えの中の一つではなく、人類が六千年の間問い続けながら、ついに答えられなかった、まさにその答えであるということを知らなければなりません。それできょうのみ言のタイトルは「真の父母論1:天の父母様の二性性相」です。それでは皆様、ご一緒にみ言の訓読をいたしましょう。
*(真のお父様)原理は二性性相を語ります。なぜ二性性相が必要なのか。二性性相がなければ、創造の調和を成すことができません。二性性相があるからこそ互いに授け受けすることができるのであり、創造の妙味を成すために必要なのです。ですから、すべての存在世界は対をなして存在するのです。なぜ双々制度になっているのか。愛のためです。本然の神様が喜ぶことのできる本然の真の愛によって存続するのです。
きょう私たちは、世の中の神観と私たちの神観を並べて比べてみましょう。比べてみて初めて、自分のものが分かるからです。まず、他宗教の神観から見ていきます。
*イスラム教
イスラム教の神観は、神の絶対的な唯一性と超越性です。人間はアッラーの被造物であり、「僕(しもべ)」です。「イスラム」という言葉の意味が「神への完全な服従」です。アッラーを人の姿で描くこと、人間に似ていると語ることを冒瀆と見なします。神のいかなる像も造ってはなりません。ただ絶対服従があるだけです。ですからイスラム教徒は、信仰の戒律を守ることが徹底しています。一日五回、決まった時刻にメッカに向かって祈ります。ラマダーンの期間には日の出ている間は断食し、余裕のある人は生涯に一度、メッカへの巡礼を義務のように果たします。心情でお仕えする生活ではなく、義務であり責任であるからこそ、一糸乱れぬのです。しかし原理的に見るとき、根本的な限界があります。僕であるがゆえに、子女がもち得る尊厳をもつことができません。特に女性の尊厳は非常に乏しいのです。ですから律法上、能力のある男性は四人まで妻を娶ることができるのです。また一部の過激な勢力は、神の名によって無慈悲なテロを行い、敵を斬首することさえあります。このようなことは、親と子女の関係においては想像もできないことです。そしてこれは、信じる信仰者だけの問題では終わりません。そのような神観が文化になれば、国民全体がその神観の影響のもとに生きるほかないのです。
*無神論と世俗的人本主義
神を前提としない現代の世俗倫理は、人間の尊厳を理性と社会契約から引き出します。しかし「なぜ人間は尊厳なのか」についての形而上学的な根拠が弱いのです。人間存在の絶対的な根拠がなければ、尊厳もまた相対化されます。資本主義社会において、人が人に能力によって値段をつける瞬間、安売りされる人間が生じるからです。
*キリスト教
キリスト教徒が信じる三位一体の父なる神様と、イエス様が感じられた父なる神様との間には、大きな違いがあります。イエス様は「アバ、父よ」と呼ばれ、「わたしのうちにおられる父、父のうちにいるわたし」と語られるほど、神様を一体として感じ、言動され、実の父としてお仕えになりました。しかしキリスト教徒が感じる神様は、イエス様が感じられた神様とは大きく異なります。信じる前は罪人であり主の僕でしたが、「霊の初穂を受けた私たちでさえ、心の内でうめきながら、神の子とされること、すなわち体が贖われることを待ち望んでいる」(ローマ8:23)とあるように、イエス様を信じることによって養子として迎え入れられた立場なのです。
これを例えて説明すると、理解が早くなります。ある主人の家に僕たちがいましたが、その主人には子女がいませんでした。それで寂しい主人が、僕たちの中で自分をよく信じ、よく従う気に入った僕がいたので、その僕を養子として迎え入れたのです。それでは、その養子となった僕は、主人の前で実の子のように甘えたり、思いのままに振る舞ったりできるでしょうか。いつも主人の顔色をうかがい、言葉と行いに気を遣うでしょう。これが、今のキリスト教徒が感じる父なる神様です。ですから牧師でさえ、講壇で自らを「主の僕」とへりくだって呼ぶのです。イエス様だけが神様と一体である実子であり、自分たちは心情的に養子として迎えられた子女です。決して近づきがたい超越的な距離があります。本質は、生まれからして主従関係だったからです。そのような神観に従ったからこそ、キリスト教国家が植民地開拓の時代に、弱い異邦の民族を奴隷とすることができたのです。人間はもともと僕であったのだから、不思議でも何でもないというわけです。あるいは同じキリスト教徒であっても、白人のキリスト教徒が黒人のキリスト教徒を僕のようにこき使うことができたのです。同じ親をもつ兄弟姉妹であれば、そのようなことはできません。私たち祝福家庭同士が、人種が違うから、弱いからといって、戦い、殺し、僕としてこき使うことができるでしょうか。私たちは天の父母様の前に一つの兄弟姉妹ですから、そのようなことはできません。これが神と人間の関係から出てくるのです。
*ひと目で見る神観の比較
| 区分 | 神とは | 人間の位置 | 神観の限界 |
| ユダヤ教 | 契約を結んでくださった唯一神 | 選ばれた民 | 選民以外の人類を抱けない |
| キリスト教 | 三位一体の父なる神 | 迎えられた養子 | 創造主と被造物の隔たり |
| イスラム教 | 超越的な絶対唯一神 | 服従する僕 | 相続する子女がいない |
| 仏教 | 人格神を立てない | 自ら悟る衆生 | 帰るべき親の懐がない |
| 儒教・東洋思想 | 理と道 | 天理に従う君子 | 心情の神を明かせない |
| 無神論 | 存在しない | 偶然に生じた存在 | 尊厳の絶対的根拠がない |
| 統一原理 | 愛の天の父母様 | 愛・生命・血統の子女 | 天の父母様の夢を実現 |
この表をもう一度ご覧ください。人類は神様を主、創造主、絶対者、理、あるいは「無い」と呼んできました。ところが、神様が願われた名前は何だったでしょうか。「天の父母」でした。天の父母様の夢は、初めから一つでした。愛する子女を得て、その子女と喜びを分かち合うことでした。しかし僕は、その夢を成し遂げることができません。臣下も、被造物も、養子も、悟った修行者も成し遂げることができません。ただ子女だけが親の夢を成し遂げるのです。ですから神様は、子女を訪ね、天の父母様の位置に立たれるために六千年を待たれたのです。
*原理が明らかにした神様の二性性相
それでは私たちは、見えない神様をどのようにして知ることができるでしょうか。原理はこれを二つの法則に整理してくれました。一つは因果法則です。見える結果は、必ず見えない原因から出てきました。被造物は結果であり、神様は原因であられます。もう一つは似る法則です。結果は必ず原因に似るのです。
(原理講論)無形でいらっしゃる神様の神性を、私たちはどのようにして知ることができるだろうか。それは被造世界を観察することによって知ることができる。それゆえパウロは「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、すなわち神の永遠の力と神性は、造られたものを通してはっきりと知られ、それゆえ人は弁解できない」(ローマ1:20)と記した。あたかもすべての作品が、その作者の見えない性稟の実体的な展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造された神様が、ご自身の見えない神性を実体対象として展開されたものである。それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見て、神様の神性を知ることができるのである。
ですから私たちは、神様を直接見ることができなくても、そのみ作品を見て神様を知ることができます。私たちはゴッホに会ったことがなくても、彼の描いた夜空を見れば、彼がどれほど孤独で熱い人であったかが分かります。作品は、作者の性稟が実体として展開されたものだからです。それでは被造万物を見てみましょう。存在するすべてのものには、二つの共通点があります。
*万有の第一の共通点:陽性と陰性
人は必ず男性か女性として生まれます。動物には雌雄があり、植物には雄しべと雌しべがあります。鉱物界に下りていけば、陽イオンと陰イオンが出会って分子を成し、電子が陽子を中心として回って原子を成し、原子を分けた素粒子にも陽性と陰性があります。素粒子をさらに分ければエネルギーになります。エネルギーは非物質です。それ以上は分けられません。ところが、このエネルギーもまた与える力(+)と受ける力(-)から成っているので、力が作用し、天地万物を形成するようになったのです。この最初の出発点であるエネルギーが、物理的な力を超えた愛の力です。真のお父様が語られました。万物が存在するためには力がなければならないが、その力こそが愛の力であり、その愛の力こそが神様であられる、と。ですから、太初の愛を人々が「神」と名づけたのです。その愛から、天地万物が双々制度として創造されたのです。男性と女性がいたから愛が始まったのではなく、愛のゆえに男性と女性が始まったということです。それでは一度当ててみてください。鶏が先ですか、卵が先ですか。愛が先です。雄鶏と雌鶏がいる前に愛が先にあったからこそ、対として出てきたのです。原理は、人間のすべての疑問を解くことができるからこそ真理なのです。
*万有の第二の共通点:性相と形状
人には心があり、体があります。心は見えず体は見えますが、見える体は、見えない心に似て生まれました。家を建てる過程を考えてみてください。まず頭の中に構想があります。その構想は目に見えませんが、確かにある形をもっています。その形を描けば設計図になり、設計図に材料と時間と汗を投入すれば家になります。見えなかった形が見えるようになったのです。ですからその家は、その人の心が木と石によって具体化されたものです。人だけがそうではありません。動物には動物心があるので動き、植物には植物心があるので植物の姿をしているのです。鉱物の分子にも見えない内的な性稟があり、陽イオンと陰イオンが結合するように導きます。ここで見えない内的な性稟を「性相」といい、見える外形を「形状」といいます。その二つは互いに異なるもののように見えますが、実は形状が性相に似て生まれたので、形状を「第二の性相」ともいいます。この性相と形状、そして陽性と陰性を、それぞれ二性性相と呼ぶのです。ですから、神様が二性性相として存在されるがゆえに、創造されたすべての被造万物も例外なく二性性相として存在します。人間もまた、心と体、男性と女性の二性性相なのです。
*皆様、スイカの種一粒も二性性相として存在します。その種の中に、スイカ一株がまるごと入っています。根も茎も葉も見えませんが、すでにすべて入っているのです。見えないものが見えるものより先であり、見えないものが見えるものを決定します。これが性相と形状の関係です。
*第一原因であられる神様
万物が性相と形状、陽性と陰性として造られたのであれば、その原因であられる神様は、どのような方でいらっしゃるでしょうか。神様は、本性相と本形状、本陽性と本陰性という二性性相の中和的主体としておられる方です。本性相は神様の心に該当する部分であり、本形状は神様の体に該当する部分です。他宗教の神観は、超越者、創造者、絶対者として、被造世界が似ることのできない超越的な神ですが、私たちの神観は互いに似ているのです。つまり、神の性相と形状が私たちと共鳴することのできる神様なのです。
*本性相
それでは、その本性相の最も深い場所には何があるでしょうか。心情です。心情とは、愛を通して喜ぼうとする情的な衝動です。真の愛の根であり、神様の核です。今までどの宗教も、どの哲学も、神様を「心情の神様」と規定することができませんでした。全能なる神様、全知なる神様、聖なる神様と呼びながら、神様を高く上げるばかりで、神様の心情を理解させてはくれませんでした。真の父母様だけが教えてくださいました。神様は、愛したくてたまらない方であられると。ですから創造があったのです。神様は能力があり余って造られたのではありません。愛する対象がいなくて造られたのです。この一言が、人類の神観の土台を根本から変えてしまったのです。
*本形状
本形状は、現象世界を存在させる根本エネルギーに該当します。ここから万有原力が出てきます。何の原理も法則もなく非原理的に動く力ではなく、本性相である心情と愛によって動く力です。ですから万有原力は、愛の原理と愛の法度に従っていきます。ここから創造されたからこそ、宇宙と自然は美しく完全なのです。それゆえ、神様の二性性相のみ言は、信仰と科学の長い争いを終わらせます。科学が明らかにする法則は、神様と競争するものではなく、神様の本形状を一枚ずつはがして見る作業です。私たちは、顕微鏡を恐れる必要のない信仰をもっています。むしろ科学が発展するほど、神様の創造の跡がいっそう鮮明になるのです。
*陽性と陰性は平等関係
性相と形状は縦的で垂直的な関係ですが、陽性と陰性は上下の主従関係ではなく、左右の平等関係だということです。夫が主体だからといって、妻が目下の者になるのではありません。主体と対象は格位の問題であって、高さの問題ではありません。右手を主に使うからといって、左手が僕になるでしょうか。男性と女性は、愛のゆえに平等なのです。世の中は平等を闘争によって勝ち取ろうとし、法と契約によって保障しようとしました。しかし私たちの平等は、戦って得た平等ではなく、神様の存在原理から出てきた本質的な平等です。
*本性相と本形状は二元論ではなく唯一論
神様は二性性相としておられますが、お二人ではなく、お一人です。水と水蒸気と氷を考えてみてください。性質がまったく異なります。一つは流れ、一つは飛んでいき、一つは固まります。しかし本質はまったく同じ水(H₂O)です。心と体も、概念としては精神と物質に分けられますが、実際には一つです。分けて分けていけば、結局は非物質であるエネルギーです。愛のエネルギーは互いに分離することができません。これが本性相であり本形状ですが、本質は一つであるがゆえに二性性相なのです。二つではなく一つです。ですから、二つの神を立てる論ではなく、ただ一つから始まった唯一論なのです。哲学は宇宙の本質をめぐって、唯心か唯物かと数千年争ってきました。観念論と唯物論が分かれて思想が分かれ、思想が分かれて民主・共産の陣営に分かれ、陣営が分かれて人が死にました。その数千年の論争が、ここで終わります。唯心と唯物は別のものではなく、もともと天の父母様の二性性相である唯一論として、一つから出発していたのです。皆様、これがどれほど大変なことか分かりますか。人類の哲学史における最も大きな結び目の一つを、原理は「唯一」という一つの言葉で解いてしまったのです。
*神様の二性性相=天の父母様
いよいよ結論に進みます。「神様の二性性相」というと、何か難しい哲学的な神を語っているように思えます。これを一言で易しく表現すれば、「天の父母様」とお呼びするのです。ついに神様の実像を正しく捜し出して、お返ししたのです。真のお母様が基元節に宣布されました。
(2013年 基元節 真のお母様)旧約時代には神様を「エホバ」と呼びました。新約時代には「父なる神様」と呼びました。今や神様を正しくお迎えしなければなりません。神様は「天の父母様」です。
基元節は、六千年ぶりに神様に「天の父母様」という本来の名前をお返しした日です。
*私は神様の見える体
人間が天の父母様の子女であるならば、私は天の父母様に似て生まれた人間です。『み旨の道』にこのようなみ言があります。神様は無形の神様であられ、アダムとエバは実体の神様である、と。神様を中心として体と心が一致するとき、神様は内的な神様となられ、私自身は外的な神様となるということです。何と驚くべきみ言でしょうか。神様が見えないからといって寂しがることはありません。私たちが神様の見える体になればよいのです。体がなければ心を表現するすべがないように、神様も、体のような私たちがいなければ、ご自身のみ旨と理想を表現するすべがないのです。ですから神様にとって、人間が最も貴いのです。そして人間にとって、天の父母様は絶対的にいてくださらなければなりません。「人間がいなければ、天の父母様は現れる方法がない。」「天の父母様でなければ、人間は価値をもつ方法がない。」この命題を深く考察してみてくださるようお願いします。
*天の父母様の神観がもつ未来的価値
1)男女の問題です。世の中は今、男女の葛藤で苦しんでいます。私たちには答えがあります。男女は神様の存在構造そのものであり、格位は違っても高低はなく、愛のゆえに平等であるという答えです。これより深い男女平等の根拠を、人類はまだもてずにいます。
2)人間の尊厳の問題です。遺伝子を編集し、生命の値段を計算する時代が来ようとしています。尊厳の根拠が社会的合意にすぎないのであれば、合意が変わる日、尊厳も消えてしまいます。しかし「私は天の父母様の子女である」という根拠は、誰も消すことができません。
3)宗教の葛藤の問題です。教団と教団の境界線が、人類を血で染めてきました。しかし親の前では、そのような境界線は成り立ちません。「天の父母様」という名前一つが、すべての宗教の壁を取り払ってしまいます。
4)自然と環境の問題です。万物を征服の対象と見る神観が、地球を病ませました。しかし原理は万物までも抱きます。万物もまた、神様の象徴的実体対象だからです。自然を見るたびに、私たちがそれほど見たく、会いたい神様を象徴的に見ているのです。数多くの宗教の中で、このような神学はありません。
5)人工知能の時代です。機械が人よりも計算がうまく、文章も書き、絵も描く時代に、人は何によって人なのでしょうか。知能や能力によってであるならば、人間はAIの僕になるでしょう。人間は神様の心情を相続した子女であるという私たちの神観が、機械の時代に人間の位置を守ってくれる最後の盾となるでしょう。
*愛する食口の皆様、きょう私たちは、人類が歩んできた神観の長い道を共に歩んでみました。ある人は神様を主人と呼び、ある人は創造主と呼び、ある人は理と呼び、ある人はいないと言いました。そのどの名前も、神様を悲しませました。神様が人間から聞きたかったただ一言は、「天の父母様」だったからです。その一言を、真の父母様が人類に教えてくださいました。世の中に宗教は多くありますが、神様を親としてお迎えし、その親の心情を相続して真の子女として生きる道を開くところは、ここしかありません。私たち皆が天の父母様の真の子女として、真の父母様の真の相続者として生きていかれることをお祈りいたします。
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