[要約:万有原力と授受作用は、神と被造世界が存在するための大原則であり、正分合作用と三対象目的と四位基台は、人間が生きていく上での生活原理です。よく与えよく受けるためには、まず相手のために先に与え、縦的なものを通して、善なるものを見返りなく授受しなければなりません。万物はこの原理のままに自然に生きていますが、人間は学んで実践しなければなりません。四つの存在が互いのために生きるとき、四位基台が成り立ち、それがすなわち、天の父母様をお迎えした真の家庭です。]
- 真理かどうか、一番簡単な物差し
罪のない方が死んでこそ罪人が生きるという十字架論。争ってこそ発展するという弁証法。偶然が重なって人間になったという進化論。聞くたびに、心のどこかがすっきりしなかったのではないでしょうか。なぜでしょうか。常識に引っかかるからです。
天の父母様は、真理を常識に合うようにお造りになりました。ですから統一原理は、誰が聞いても「ああ、なるほど」とうなずけるのです。まさにその点がすごいのです。
今日お話しする万有原力と授受作用は、神と被造世界が存在するための大原則であり、正分合作用と三対象目的と四位基台は、人間が生きていく上での生活原理です。一つの宗教の教理ではなく、宇宙の理そのものです。今日のこのみ言が常識に合っているかどうか、一つ一つ確かめてみてください。 - 万有原力(萬有原力)
「神はあらゆる存在の創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶対者である。したがって、神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶対的なものであり、同時にこれはまた、被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力の根本でもある。このようなすべての力の根本にある力を、我々は万有原力と呼ぶ。」
今日、科学はビッグバン理論を標準としています。宇宙が膨張してきたという観測は、紛れもない事実です。しかし科学がどうしても答えられない問いがあります。「何がその始まりを引き起こしたのか。最初のその力はどこから来たのか。」
だからといって、六日間で天地を創られたという文字どおりの創造論も、常識に合うわけではありません。それでは天地万物は、どのようにして始まったのでしょうか。永遠にみずから在す絶対的な力、すなわち万有原力から始まったのです。
真のお父様はこうおっしゃいました。「万有原力、それは何ですか。それは神様のことを言っているのです。」堤苦しく聞こえたこの一言は、実は神様を指し示していたのです。すべての存在がどこから始まったのかを明らかにした、偵大な宣言です。
目に見えるすべての物質は、目に見えない絶対的な力から生まれました。今この瞬間、あなたの心臓を鼓動させているその力も、根源をたどりつめれば、その最も深いところに万有原力、すなわち神様がいらっしゃいます。
たとえて言えばこうです。神様の二性性相のうち、性相的な部分が心情だとすれば、形状的な部分が万有原力です。心情が心だとすれば、万有原力は体です。体と心が分けられないように、この二つも一つのかたまりとしてのみ存在します。
ところが、万有原力を神様おひとりだけがお持ちの力だと思っておられる方がいます。そうではありません。被造物が存在するすべての力を起こす根っこです。神様が自存される力も、人間が生きる力も、同じ万有原力に根を下ろしています。だからこそ、神様と人間とは互いに授受できるのです。神を、はるか遠く離れた超越者としてのみ見る神観と分かれるのは、まさにこの点なのです。 - 授受作用(授受作用)
「あらゆる存在をつくっている主体と対象とが、万有原力により、相対基準を造成して、良く授け良く受ければ、ここにおいて、その存在のためのすべての力、すなわち、生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである。このような過程を通して、力を発生せしめる作用のことを授受作用という。」
「授受」の前の字は与える授、後の字は受ける受です。受けてから与えるのではなく、与えて受けるのです。順序が逆になってはいけません。まず与えること、それが宇宙の原則です。
万有原力と授受作用の力は、原因と結果、内と外、主体と対象の関係にあります。万有原力が縦的な力であるならば、授受作用の力は横的な力です。名前が似ているからといって、万有引力と混同してはいけません。万有引力は原因の力ではなく、結果の力です。
万有原力を土台に、天宙全体が相対基準を立てて授受しています。原子核と電子が授受して原子をつくり、原子と原子が授受して分子をつくります。太陽と惑星は互いに授受しながら、それぞれの軌道を守っています。
花は自分の場所を離れられないので、香りを放ちます。すると蜂はその香りをたどって、深い山奥の岩の隣間に咲いた一輪の花にも必ずたどり着きます。花は蜜を与え、蜂は受粉を助けます。それが授受作用です。
私たちの体も同じです。息をして空気を授受していますが、呼吸が自然に行われていれば健康な人であり、呼吸が意識され始めれば病んでいる人です。
人と人の間もそうです。「自分はあの人にこれだけしてあげたのに、あの人は自分に何をしてくれたか」 この計算が始まった瞬間、その関係は長続きしません。だからこそ、授受にも法則があるのです。 - よく与え、よく受けるための四つの法
第一に、まず相手のために先に与えてください。そうすれば受けることは自動的についてきます。豆一粒、とうもろこし一粒を植えれば、数十倍、数百倍にして刑り取ります。なぜ相手のために与えなければならないのでしょうか。永遠であるためです。
第二に、縦的なものを通して授受してください。縦的なものを無視して横的にばかり授受すること、それがまさに堠落です。
第三に、必ず善なるものを授受してください。私利私欲を抱いて授受すれば、それは賤賭aになります。何かを受けるたびに、「自分はこれを受ける資格があるだろうか」と、一度は自問すべきです。
第四に、見返りを求めずに授受してください。見返りを計算した瞬間、愛は取引になってしまいます。
ですから、豊かに生きる、貧しく生きるという基準も、もう一度立て直す必要があります。お金や名誉ではありません。天法どおりによく与え、よく受ける人こそ、豊かに生きる人です。授受の法則はすなわち黄金律です。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」――このみ言こそが、この原理そのものなのです。 - 正分合作用(正分合作用)
「万有原力によって、神自体内の二性性相が相対基準を造成して授受作用をするようになれば、その授受作用の力は繁殖作用を起こし、神を中心として二性性相の実体対象に分立される。このように分立された主体と対象が、再び万有原力により、相対基準を造成して授受作用をすれば、これらは再び、合性一体化して、神のまた一つの対象となる。このように、神を正として、それより分立して、再び合性一体化する作用を正分合作用と称する。」
正分合作用とは、一つの目的を持ったパターンが永遠に繰り返されることです。だからこそ種を飛び越えることはなく、ただ同じ種としてのみつながっていきます。創世記一章で、すべての植物と動物を「その種類にしたがって」お造りになったとある、まさにそのとおりです。狼の雄と雌が虎の子を産むことはありません。
一つの細胞をご覧ください。生命の設計図であるDNAが正として入っており、それが複製されて二つに分かれ(分)、成長して一つの完全な生命体(合)を成します。正分合、正分合、正分合――このようにして永遠に繁殖し、広がっていきます。一粒の種が地に蟲かれて育てば、雌しべと雄しべに分かれ、受粉を経て、再び一粒の種を結びます。
それでは堠落とは何でしょうか。この「一つのための二つ」が崩れて、「二つがそのまま二つ」に分かれてしまった状態です。二つが二つのまま残れば、体には病が来て、命には死が訪れます。あなたと私が二つになれば不和が、社会が二つになれば葫藤が、国家が二つに割れれば戦争が起こります。二つが二つのまま残るその場所こそ、地獄です。授受して正分合として大きくなっていかなければならないのに、授受ができないから争うのです。 - 正分合ですか、正反合ですか
正反合という図式はヘーゲルの弁証法から出たもので、マルクスとエンゲルスがこれを唱物論と結びつけて弁証法的唱物論としました。物事の内にある矛盾こそが発展の原動力だというのです。
彼らは卵を例に挙げます。殻が胚を抑圧し、胚が育ってひよこになると、殻と闘って割って出てきて、新しい命になるというのです。もっともらしく聞こえますか。こういうものこそ、まさに常識から外れた偽りの真理です。
殻と胚は、闘うための対立ではありません。殻には、胚がひよこになるまで守り抜く責任があり、胚はその保護の中で正分合として分かれながら育っていきます。二つは互いに協力し合う合目的性を帯びています。
それだけではありません。ひよこが殻を割る前に呼吸をしなければならないので、卵の端には気室まで用意されています。命として生まれ出るまでに必要なあらゆる備えが、あらかじめその中に整えられているのです。これは闘争でしょうか、それとも愛でしょうか。
ただし、正反合が力を得た背景も理解しておく必要があります。産業革命初期、八歳の子どもまでも重労働に駆り出されていた、あの惲惨な現実がありました。マルクスはそこに愤りを覚えて、革命理論を打ち立てたのです。
しかし対立と闘争は憑しみから生まれます。正反合は真理を明らかにするというより、革命を起こすための理論となり、その理論をつかむと人は闘争的な人間になってしまいます。闘争には発展がありません。授受してこそ発展するのです。それでも今日この論理がもっともらしく聞こえる理由があります。隣人の幸せがそのまま自分の不幸になる競争社会、座の取り合いが世界を覆っているからです。
共産主義が憑しみと敌意の弁証法的唱物論だとすれば、統一原理は愛と美を授受する授受法的一元論です。今こそ、本然の正分合の価値観で、あの憑しみに満ちた正反合の価値観を脱がす必要があります。 - 三対象目的(三對象目的)
「正分合作用により、正を中心として二性の実体対象に分立された主体と対象と、そしてその合性体が、各自主体の立場をとるときには、各々残りのものを対象として立たせて、三対象基準を造成する。そうして、それらがお互いに授受作用をするようになれば、ここで、その主体を中心として、各々三対象目的を完成するようになる。」
ここでぜひ覚えておいていただきたいことがあります。授受作用も、正分合作用も、三対象目的も、人間以外の被造万物には自然に成り立ちます。原理法則にしたがって生存し、繁殖するからです。しかし人間は違います。万有原力だけは生まれながらに自然に持っていますが、授受作用からは人間自身が責任分担を果たしてこそ成り立ちます。だから万物はこの原理を学ばなくてもよいのですが、人間は学んで実践しなければならないのです。
三対象目的というと難しく聞こえますか。家庭に当てはめてみれば、とても簡単です。夫が主体になれば神様と妻と子女が対象であり、妻が主体になれば神様と夫と子女が対象です。四つの存在のうち一つが主体の座に立てば、残りの三つが三対象の座に立ちます。その三対象のために与える目的で生きること、それが三対象目的です。
このように四つの存在がそれぞれ三対象のために生きるとき、一つの家庭の中に十二種類の心情が咲き誇ります。天の父母様が男性と女性とその子女をご覧になる心情の色合いは、それぞれ異なります。夫が感じる神様への愛と、妻への愛と、子女への父性愛は、それぞれ違います。妻が感じる神様への愛と、夫への愛と、母性愛もまた、夫とは異なる形で現れます。孫が祖父母に対して抱く心情、父に対する心情、母に対する心情も、少しずつ異なります。一つ屋根の下に、燃然たる十二の色合いが溶け合う場所、それが家庭です。 - 四位基台(四位基臺)
「このように、正分合作用により、正を中心として、二性の実体対象に立たされた主体と対象と、またその合性体が各々三対象目的を完成すれば、四位基台を造成するようになる。」
四位基台とは、①愛の根本基台であり、②善の根本基台であり、③力の根本基台であり、④正分合三段階の根本基台であり、⑤三数・四数・十二数の根本基台であり、⑥神様の永遠の創造目的です。
それでは四位基台は、どのような姿で存在するのでしょうか。神様がお造りになったものは、何一つとしてじっと止まっているものはありません。主体と対象が授受する角度と速度と力が異なるので、一つの平面上だけを回るのではなく、方向を変えながら回転します。だからその軌跡は球の形、すなわち球形を成すのです。太陽を回る惑星がそうであり、原子核を回る電子がそうです。
人間も同じです。天の父母様と自分、夫婦の間、親子の間、兄弟の間、友人の間、先輩後輩の間で授受しますが、いつも同じ心情で授受するわけではありません。その都度方向が変わります。だから私たちの人生は立体になるのです。
そしてすべての授受作用には必ず中心があります。低いものは、より高いものにつながっています。そのように上へ上へとたどっていけば、一番上に人間がいます。だから人間は、天宙を総合した実体相と呼ばれるのです。 - 四位基台、それはすなわち真の家庭です
世の人々は、家庭の三要素と言えば、親と夫婦と子女だけを思い浮かべます。ところが、最も大切な一つが抜けています。目に見えなくても、天の父母様がその中心にお迎えされてこそ、真の家庭になります。天の父母様の愛を中心として、親と夫婦と子女が一つになり、互いのために生きること、それが真の愛の家庭であり、完成した四位基台です。
それでは罪とは何でしょうか。神様を中心とした四位基台ではなく、サタンを中心とした四位基台になってしまったこと、それが罪です。漢字の「罪」は、網を表す「罒」に「非ず」の「非」を加えた字ですが、上の部分が「四」の字に似ていることから、「四位基台でないものが罪である」と読み解く解釈もあります。字形を借りた解釈ではありますが、意味そのものは正確です。 - それではなぜ、既存の宗教や思想は家庭の危機に答えられないのでしょうか
キリスト教徒もまた、家庭の中に幸せと安らぎを見いだしたいと願っています。「男は父と母を離れて、その妻と合い、二人は一体となるべきである」(創世記二・二四)とあり、エベソ書五章は、夫と妻が互いに愛し、敬い合って一体となるよう教えています。それにもかかわらず、神学の主流は救いの単位を個人に置いてきました。「結婚するもよいが、結婚しないはもっとよい」(コリント第一・七・三八)というみ言は独身をより高く見る根拠として読まれ、「復活のときには、めとることもとつぐこともない」(マタイ二二・三〇)というみ言は、家庭の地位を弱める方向に解釈されてきました。
家庭こそ幸せの安らぎの場だと感じながらも、なぜ個人の救いにとどまってしまうのでしょうか。根本的な原因は神観にあります。父なる神は超越的な絶対者であり、男性の姿をしたただおひとりの唐一神であると信じられてきたからです。
しかし私たちは、父なる神と母なる神が一つになられた「天の父母様」を、一元論として信じています。この違いは、現実の中では実に大きな差となって現れます。男性の姿だけの唐一神論から見れば、男性は神の形象を代表し、女性はそれを助ける侍女のような立場へと押しやられます。だからこそ、世界のほとんどすべての文化圈で、妻が夫に隴属することが当然のものとされてきたのです。そのような神観のもとでは、救いも個人の救いにならざるを得ません。
私たち家庭連合は違います。天の父母様が一つになられたように、夫と妻が天の父母様に似て一つになることこそ、救いの核心です。だから私たちは家庭救いです。幸せな家庭を築くこと、それが救いであり、それが信仰生活の常識なのです。
仏教はどうでしょうか。家庭を離れる出家修行を、最も高い道と見なしています。すべてが因縁によって生じるという縁起論の上に立ち、因縁を断ち切って輪回から抜け出し、涅様に至ることを核心の目標としています。家庭を完成させる方向ではなく、因縁を断ち切る方向へと向かっています。
共産主義は、原理とはまったく正反対です。エンゲルスは『家族、私有財産及び国家の起源』の中で、一夫一婦制家族を私有財産の産物と規定し、男性による女性支配を最初の階級拑圧であるとしました。『共産党宣言』は、ブルジョア家族が資本と私的利益の上に立っていると見なし、その廃止を主張しました。だからこそ共産世界は、家庭の幸せよりも革命の課題を優先させるのです。
結局、家庭を解体しようとした共産思想は崩れ去り、家庭を後回しにしてきた宗教は、家庭が崩れていく現実の前で代案を打ち出せずにいます。
*それでは私たちは何と言うのでしょうか。『原理講論』四一頁に、驚くべきみ言があります。
「人間は天宙の和動の中心として創造されたので、すべての被造物の二性性相の実体的中心体であるアダムとエバが、完成されて夫婦になり、互いに和動して一体となったとき、初めて天宙も共に和動するのです。アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、創造目的を完成した善の中心です。また、そこで神様のみ言が実体として成るがゆえに、その位置は真理の中心となり、すべての人間をして創造目的を指向するように導く本心の中心ともなります。それゆえ被造世界は、神様を中心とし、夫婦を成した四位基台を中心として、合目的的な球形運動をするようになるのです。」
全宇宙が一つの家庭を中心にして、調和しながら回るという意味です。家庭が善の中心であり、真理の中心であり、本心の中心であるというこのみ言は、世界のどの宗教にも、どの哲学にもありません。神様が安息される場所が壮麗な聖殿ではなく、夫婦の愛の座であるというこの宣言こそ、今日の家庭問題を解く代案となるでしょう。 - 神様の遍在性(遍在性)
「四位基台が神様を中心とした球形運動を起こし、神様と一体を成せば、それはすなわち、神様が運行されうるすべての存在の、またその存在のためのすべての力の根本的な基台となります。創造目的を完成した世界においては、被造物のすべての個性体がこのように球形運動を起こし、神様が運行されうる基台を造成するようになっています。こうして神様は、一切の被造物の中に遍在されるようになるのです。」
天の父母様は宇宙のどこにでもいらっしゃることができますが、どこにでも自在に臭在されるわけではありません。四位基台が成った場所、すなわち主体と対象が愛によって一つになり、共に回るその中心に臭在されます。
この違いは、実生活の中では非常に大きなものとなります。天の父母様がただどこにでもいらっしゃるのであれば、自分はどんなふうに生きてもかまいません。しかし、愛によって一つになった場所にのみ臭在されるのだとすれば、夫婦が背を向け合って坐る家には、天の父母様がお坐りになる場所がありません。天の父母様をお迎えするとは、まさにこういう意味なのです。 - なぜすべての存在は、二性性相になっているのでしょうか
第一に、存在するためです。何であれ存在するためには力が必要ですが、その力は授受作用によってのみ生まれます。ところが一人では授受することができません。ですから必ず主体と対象の二性性相として存在しなければならないのです。
第二に、永遠であるためです。直線運動にはいつか終わりが来ます。永遠であるためには回転しなければならず、回転するためには授受しなければならず、授受するためには中心がなければなりません。時間もまた、朝と昼と夕方と夜、春夏秋冬のように繰り返す循環によって永遠性を保っています。これが宇宙の存在法則であり、天道です。
第三に、愛のためです。愛は関係を通してのみ成り立ち、授受して一つになるときに喜びが生まれます。だから相手が必要なのです。 - 今日、たった一つだけ
万有原力、授受作用、正分合作用、三対象目的、四位基台。万物が存在する理をこれほど常識的に明らかにしてくれた真理は、他のどの宗教や哲学にも見いだすことは難しいでしょう。だからこそ、やがてはすべての宗教と哲学が、この原理を受け入れるようになるでしょう。
天理とは、神様のみ意に合うように生きるための理です。自然界では、どんな存在も物理法則から外れることはできません。物理から外れた瞬間、崩れ始めます。私たちの体は物理の支配を受け、私たちの心には天理が適用されます。天理から外れれば、その時から壊れ始めます。太陽を追いかけてこそ生きる植物のように、命の根源であられる神様を追いかけてこそ、人間も育つのです。
今日帰られたら、たった一つだけ試してみてください。まず与えてください。見返りを求めずに、まず与えてください。その一度の「まず」から授受作用が起こり、四位基台が立てられ、ついにはその場所に神様が運行されるのです。
#万有原力・授受作用・正分合・四位基台をやさしく解きほぐす
なぜ関係は「先に与える人」から始まるのか
人間関係が行き詰まると、私たちはつい、相手が先に手を差し伸べてくれるのを待ってしまいます。
自分が与えた分だけ返してもらえなかったと感じると寂しくなり、もう先には与えたくないという気持ちも生まれます。
ところが統一原理は、関係が動く順序を、まったく逆に説明します。
受けてから与えるのではなく、まず与えて、よく受けること。
この小さな順序こそが、人と人の間だけでなく、家庭や共同体を動かす力になるのです。
今日は難しく聞こえる万有原力、授受作用、正分合、三対象目的、四位基台を、花と蜂、種と家庭の姿でやさしく解きほぐしていきます。
まず要点だけまとめると
万有原力とは、すべての存在と力の根源となる、神様の力です。
授受作用とは、主体と対象がよく授受するときに、新しい力が生まれる過程です。
正分合とは、一つから分かれた二つが関係を結び、より大きな一つを成す原理です。
三対象目的とは、自分を中心に置かず、残りの三つの対象のために生きることです。
四位基台とは、天の父母様を中心に、家族が愛を授受する土台です。
結局、これらすべての概念は、一つの実践へとつながります。
見返りを期待する前に、まず与えることです。
一、すべての存在を動かす根源、万有原力
私たちの心臓は今も鼓動しており、季節は絶え間なく循環し、数多くの命が生まれては育っています。
統一原理では、このようにすべての存在が生き、動くことをできるようにする根源的な力を、万有原力と呼びます。名前は似ていますが、物理学でいう万有引力とは異なる概念です。
万有原力は単なる物理的エネルギーではなく、神様と被造世界が存在し、互いに関係を結べるようにする根源の力を意味します。
難しく考える必要はありません。
万有原力とは、すべての存在と関係を可能にする、神様の根源的な力だと理解すればよいのです。
二、関係に力が生まれる過程、授受作用
授受作用の「授受」は、与える「授」と受ける「受」を使います。
先に受けてから与えるのではなく、まず与えて受けるという順序が込められています。
自然の中にも、こうした関係を容易に見いだすことができます。
花は香りと蜜を差し出し、蜂は受粉を助けます。互いに授受する過程の中で、花は実を結び、蜂は命をつないでいきます。
人と人の間も同じです。
「自分はこれだけしてあげたのに、あの人は自分に何をしてくれただろうか」と計算し始めると、関係はだんだん重くなっていきます。
反対に、一人が先に心を開いて温かい言葉をかければ、閉ざされていた関係に再び流れが生まれます。
授受作用とは、単に物をやり取りする行為ではありません。
心と愛、信頼と責任を授受しながら、共に生きていく力を生み出す過程なのです。
三、よく授受するための四つの原則
授受作用が健やかに成り立つには、四つの原則が必要です。
第一に、相手のために先に与えます。
第二に、一時的な感情や利益だけに従わず、天の意志と良心という中心を守ります。
第三に、互いのためになる、善なるものを授受します。
第四に、見返りを計算しません。
とりわけ最後の原則が重要です。
「自分はこんなにしてあげたのだから、あなたもその分だけ返すべきだ」と思った瞬間、愛は取引になりやすいのです。
真の愛は、相手の反応を確かめてから始まるものではありません。
自分が先に与えられるものを探すところから始まります。
四、二つがより大きな一つを成す過程、正分合
正分合とは、一つから二つが分かれ、その二つが関係を結んで再び一つの実を結ぶ過程です。
一粒の種が地に蟲かれて育てば、雌しべと雄しべに分かれます。二つは受粉を通して、再び新しい種を結びます。
一つが二つになり、その二つが関係を結んで、より大きな命へとつながっていくのです。
人も互いに違うからこそ、関係を結ぶことができます。
夫婦は完全に同じである必要はありません。異なる二人が同じ目的を見つめて助け合うとき、二人を超えた新しい家庭と愛の実が生まれます。
違いは必ずしも争いの原因になるわけではありません。
同じ中心と目的に向かうならば、互いの不足を满たし合う力になり得ます。
正分合は、相手に勝たなければ成長できないという見方よりも、互いに授受し、協力し合うときにより大きな一つを成し得る可能性を示しています。
五、この原理が家庭の中で成り立つならば
三対象目的という言葉も難しく聞こえますが、家庭に当てはめれば少しやさしくなります。
家庭の一人の構成員が、自分だけを中心に置かず、残りの三つの対象のために生きていくこと、それが三対象目的です。
夫は天の父母様と妻と子女のために生き、妻は天の父母様と夫と子女のために生きます。子女もまた、天の父母様と両親を愛しながら育っていきます。
このように、四つの位置が互いのために愛を授受する土台、それが四位基台です。
同じ家に共に住んでいるからといって、自然に真の家庭になるわけではありません。
家族が互いに「自分が先に与えられるものは何だろうか」と考え、その中心に天の父母様の愛をお迎えするとき、真の家庭が成り立ちます。
天の父母様は、遠く離れた場所にだけいらっしゃる方ではありません。
夫婦が互いを尊重し、親と子が心を分かち合って愛によって一つになる、その中心に共にいてくださいます。
六、なぜこの原理が今必要なのか
今日、私たちは、相手が先に変わってくれるのを待つことに慣れてしまっています。
夫婦の間でも、親子の間でも、共同体の中でも、誰がより多くしたかを計算してしまいます。
しかし、すべての人が受けることだけを待っていれば、関係は動きません。
誰かが先に温かく挨拶し、先に話を聞き、先に「ごめんなさい」と言わなければなりません。
大げさな犠牲でなくてもかまいません。
今日、家族に温かい言葉を先にかけること、頼まれる前に小さな家事を手伝うこと、相手の話を遅らずに最後まで聞くことから始められます。
今日、一つだけ実践してみるなら
今日一日、こう問いかけてみてください。
自分がこの人に先に与えられるものは何だろうか。
見返りを求めずに差し出した小さな一言と行動一つが、止まっていた関係を再び流れさせることができます。
その一度の「先に」から授受作用が始まり、愛が動き、家庭の中に天の父母様が共にいてくださる場所が整えられます。
難しく感じられた万有原力と授受作用、正分合と四位基台が指し示す生活の結論は、意外に単純です。
まず与え、愛によって一つになることです。
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