―― 人類が六千年間、解けなかった問い ――
[要約:人類は「私はどこから来て、なぜ生き、どこへ行くのか」という問いに、ついに答えることができませんでした。キリスト教は「栄光」、イスラム教は「礼拝」と答えましたが、どちらも人間が神に何をすべきかを問うただけで、神の心情は問いませんでした。哲学は根拠を示せず、唯物論は人間を手段に変え、科学は始まりを語るだけで原因を知りませんでした。原理は答えます。創造の目的は栄光でも礼拝でもなく「喜び」であり、全能なる神も、お一人では愛することがおできにならないため、ご自身に似た対象として人間をお造りになりました。だからこそ、その方は主人ではなく「天の父母様」なのです。その目的は三大祝福(個性完成・家庭完成・主管性完成)として具体化され、全体と個体をともに生かす二重目的によって、二十世紀の二大価値観の対立を解きます。人生の主語も目的語も愛であり、私たちは愛から来て、愛を完成し、愛の懐へと帰るのです。]
答えを見つけられなかった二人の天才
二十世紀を揺るがした哲学者ジャン=ポール・サルトルは、一九八〇年、肺水腫のためフランス・パリの病院に入院していました。生涯にわたって「自由」を叫び続けた人です。神もいない、運命もない、定められた目的もない。人間はただ自分自身を自分で造っていく存在である。そう教えました。ところが、死の苦痛が目前に迫ると、彼は叫び声をあげて絶叫したといいます。見舞いに訪れた誰一人として、彼を慰めることはできませんでした。彼が世を去った後、フランスの新聞はこう問いました。「死からの自由をあれほど叫んだ人が、なぜあれほど不安におののき、惨めに生を終えなければならなかったのか」。そのとき、一人の読者が新聞にこう答えを寄せたそうです。「サルトルの末路が惨めだったのは、彼に帰るべき故郷がなかったからである」。
似たような話がもう一つあります。ドイツの哲学者ショーペンハウアーです。世のすべては「生きようとする盲目的な意志」が生み出した苦痛だと信じた厭世主義者でした。ある日の夕暮れどきのことです。公園のベンチに座って深い物思いにふけっている老人に、公園の管理人が近づいて声をかけました。「ご老人、日が暮れました。そろそろお帰りにならなければ。どちらからいらしたのですか」。すると老哲学者は、こう問い返したといいます。「私がどこから来たのか、ですか。私もそれが分からないので、こうしているのです。人生は暮れてゆくのに、自分がどこへ帰ればよいのか、分からないのですよ」。
二人とも、当代を代表する天才でした。ところが、生涯かけて格闘しても解けなかった問いが一つありました。
「私はどこから来て、なぜ生き、どこへ行くのか」。この問いの前では、知性は何の役にも立ちませんでした。
今日は皆様に、少し変わったご提案をしたいと思います。私たち食口(しっく=信仰の家族)は、原理を本当に数多く聞いてきました。あまりにも多く聞いたために、今では「創造目的」と聞けば「ああ、あの三大祝福だな」と思い、次の順序を待ってしまいます。
貴い真珠も、毎日手に握っていれば石ころのように感じられるものです。ですから今日は、創造原理を語る前に、まず他の答えを見てみましょう。世界の大きな宗教が、人類最高の哲学者たちが、二十世紀を血で染めた共産主義が、そして最先端の現代科学が、この問いに何と答えたのかを見ていきたいと思います。
それらの答えをすべて聞いたうえで原理に戻ってくると、毎日聞いていたあの御言が、今日はまったく違って聞こえるはずです。私たちがどれほど途方もないものを手にしているのか、ご一緒に実感していただきたいと思います。
第一に、キリスト教
プロテスタントに最も有名なウェストミンスター小教理問答があります。その第一問がまさにこれです。「人間の第一の目的は何か」。答えはこうです。「神に栄光を帰することである」。とても良い答えです。ところが、ここからもう一歩だけ踏み込んでみてください。神はなぜ栄光を必要とされたのでしょうか。完全な方が、足りないものが何一つない方が、なぜわざわざ人間を造って栄光を受けようとされたのでしょうか。ここからキリスト教神学は曖昧になります。「それは神の御旨であるから、あえて問うな」と言って扉を閉じてしまうのです。しかも、キリスト教信仰の中心語は「創造目的」ではなく「救い」です。罪から救われることが信仰のすべてです。そのため、この地上での人生は仮の待合室となり、本当の舞台は死んで行く世界、すなわち「イエスを信じれば天国、信じなければ地獄」になってしまいました。
第二に、イスラム教
イスラム教はこの問いに極めて明快に答えます。(クルアーン五一章五六節)「われがジンと人間を創ったのは、ただわれに仕えさせる(礼拝させる)ためである」。目的は明確です。人間は神を礼拝するために造られた、というのです。ですからイスラム世界で最も多い名前が「アブドゥッラー」であり、これは「アッラーのしもべ」という意味です。ここでの神と人間の関係は、主人と僕(しもべ)です。しかし、考えてみてください。イスラム教で「アッラー父よ」と呼んだらどうなるでしょうか。それは冒涜です。アッラーは絶対的に超越しておられる方であるため、人間と親子の関係にはなれないのです。主人と僕の間に服従はあっても、心情の相続はありません。
第三に、仏教
仏教は非常に独特です。「私はどこから来たのか」という問いそのものを解体してしまいます。仏教の根本的な教えが「無我」、すなわち「私と言えるものはない」だからです。四聖諦を見てください。人生は苦である。苦の原因は執着である。執着を断てば苦は消える。その道が八正道である。つまり仏教が投げかける問いは「私はどこから来たのか」ではなく、「私はどうすればこの人生から抜け出せるのか」なのです。創造主がいないので、創造目的もありません。輪廻の車輪から抜け出すことが最終目標になります。慈悲はあります。しかし、私を造ってくださった人格的な天の父母様、私を絶対的に愛してくださる方はいません。だからこそ、虚しいのです。
これらの答えに共通するもの
さて、整理してみましょう。キリスト教は「栄光」と言い、イスラム教は「礼拝」と言いました。答えは違います。ところが驚くべきことに、共通点がたった一つあります。何でしょうか。すべてが「人間が神に何をなすべきか」に対する答えだ、ということです。誰も反対方向を問いませんでした。「神はどのような動機で宇宙を創造されたのか。なぜ人間が必要だったのか」。数千年の人類宗教史において、神の心情を正面から問うた宗教はありませんでした。人類は神の前にひざまずくことは知っていましたが、神の胸の内に入っていくことは知らなかったのです。
哲学者たち ―― 答えを見つけられなかった人々
今度は哲学に行ってみましょう。人間の理性で答えを探そうと乗り出した人たちです。
カントはこう言いました。「人間を手段として扱わず、目的として扱え」。人間はそれ自体が目的だというのです。皆様、これは私たちが原理講論でよく聞いてきた言葉ではないでしょうか。人間は創造の手段ではなく、創造の目的そのものである、と。カントは原理の敷居のところまで来たのです。ところが、ちょうどそこで止まってしまいます。なぜ人間が目的なのでしょうか。カントはその根拠を示せません。「理性がそう命じるからだ」としか言えませんでした。原理はその根拠を示します。人間が神の愛の対象だからである、と。
カミュは『シーシュポスの神話』を語りました。転がり落ちると分かりきっていながら、毎日岩を山の上へ押し上げる人間。それが人生だというのです。そのうえで彼は最後にこう付け加えます。それでも私たちは、シーシュポスが幸福であると想像しなければならない、と。皆様、これは答えではありません。答えを見つけられなかった人の絶叫です。
唯物論と共産主義 ―― 人間を手段にした思想
今度はまったく異なる答えが登場します。マルクスです。
マルクスは土台そのものをひっくり返しました。
神などというものはない。精神が物質を生んだのではなく、物質が精神を生んだのだ。宗教は民衆のアヘンである。
人間の価値は社会的関係によって決まる。人生の目的は何か。階級のない社会を建設することである。
一見すると、非常に革新的に聞こえます。実際、二十世紀の数多くの若者がこの言葉に人生を懸けました。ところが、ここには致命的な落とし穴が一つあります。個人が歴史発展の道具になる、ということです。全体のためなら、個人はいくらでも犠牲にできます。結局、人間が「目的」ではなく「生産手段」になってしまいました。手段が目的の座に居座った瞬間、私たちはその主人ではなく奴隷になります。人間が手段の位置に降りた瞬間、人間はいくらでも取り替えのきく部品になります。二十世紀の共産主義の惨劇は、目的と手段が入れ替わったところから来たのです。
唯物論には、さらに根本的な問題があります。物質から出てきたのなら、死ねば土で終わりです。そうであれば、愛は化学反応であり、良心は脳の電気信号です。母親が子どものために命を投げ出すのも、DNAがそのように進化したからだ、ということになります。物質そのものには目的がありません。唯物論は目的を見つけられなかったのではなく、目的という問いそのものを廃棄してしまった思想なのです。
現代科学とビッグバン宇宙論 ―― 「なぜ」を知らない学問
最後に現代科学です。今日、最も権威ある答えとして扱われていますね。
ビッグバン宇宙論はこう言います。一三八億年前、宇宙は点一つよりも小さな状態から始まり、爆発的に膨張した。その中で水素が生まれ、星が生まれた。星が死ぬときに炭素と酸素と鉄を放出し、その残骸から地球が造られた。そこでたまたま条件が合って生命が生まれた。ですから、私たちの体の中のカルシウムや鉄分は、実際に昔の星の残骸です。私たちは文字どおり、星の塵からできた存在なのです。
ところが、ここに決定的な問いが残ります。ビッグバンは「始まり」を説明しましたが、「理由」は語ってくれません。これは科学の欠陥ではなく、領域の問題です。顕微鏡では母の愛を見ることはできません。いくら倍率を上げても見えません。愛は顕微鏡の対象ではないからです。
さて、ここまでが人類の出した答えです。宗教は人間が神に何を献身すべきかを語り、哲学は目的を知りたがり、唯物論は目的を消し、科学は始まりを語ったが原因を知りませんでした。一三八億年を研究した科学も、六千年の宗教史も、二千五百年の哲学史も、この問いには答えを出せなかったのです。
第一の大転換 ―― 神は「喜び」のために創造された
ところが、私たちには答えがあります。これからその話をいたします。
原理講論の創造原理の扉を開くと、最初の一文から違います。
創世記を見ると、神が創造を段階ごとに終えられるたびに、「見て、良しとされた(喜び)」という言葉が六回繰り返されます。そして人間創造の後に「はなはだ良かった」で締めくくられます。創造目的は「栄光」ではありません。「礼拝」でもありません。「喜び」です。
ところがここで原理は、人類の誰も問わなかった問いを一つ投げかけます。「喜びはどのようにして生じるのか」。答えはこうです。喜びは一人では生じません。必ず、自分の性相と形状のとおりに展開された対象がなければなりません。その対象から来る刺激を通して自分自身を相対的に感じるとき、すなわちその対象が自分に似ているときに、初めて喜びが生じるのです。例を挙げてみましょう。画家が頭の中にどれほど素晴らしい構想を抱いていても、構想だけでは実体的な喜びはありません。それがキャンバスの上に実際の作品として完成し、その作品から来る刺激が自分の心に似ているとき、喜びが訪れるのです。
この論理をそのまま神に適用すると、途方もない結論が出てきます。
「神も喜ばれるためには、神の性相と形状に似た対象がなければならない」ということです。
私はこの箇所をこう申し上げています。「神は全能であられます。できないことは何一つありません。ところが、全能なる神がお一人では絶対にできないことが、たった一つだけあります。何でしょうか。愛です」。どれほど全能であっても、一人では愛することができません。ですから神は、愛する相手を必要とされたのです。それゆえに宇宙をお造りになり、最後に、神と完全な愛を授受できる人間をお造りになりました。
そしてこの箇所で、私たちがなぜその方を「天の父母様」とお呼びするのかが明らかになります。イスラム教は畏れ多くて父と呼べず、仏教には呼ぶべき方がいません。キリスト教は父と呼びはしますが、僕や養子の立場から呼びました。私たちは子女の立場から「天の父母様」とお呼びします。この呼称一つの中に、原理の全体が入っているのです。
真のお父様も、二十五歳のとき、深い祈祷の中で「神人之関係 父子之因縁(神と人間の関係は、父子の因縁である)」を悟られたとき、聖書の創造・堕落・復帰など、あらゆる疑問がすっかり解けたと語られました。
第二の大転換 ―― 三大祝福、目的はこれほど具体的です
他の宗教の答えは、どこか漠然としています。栄光を帰せよ、礼拝せよ、解脱せよ、道人になれ。ところが原理は、人生の目的を三つ、はっきりと具体的に語ってくれます。創世記一章二八節「生めよ、増えよ、万物を主管せよ」。これは原理が新しく作り出した言葉ではありません。創世記にあった御言です。これが三大祝福です。
第一祝福 ―― 個性完成
原理はこれを、心と体が一つになることだと説明します。皆様、私たちは今どのように生きているでしょうか。朝に決心して、夕方に後悔します。心は赦そうと言っているのに、口はすでに言い返しています。使徒パウロもローマ書七章二五節で「わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えている」と嘆きました。これが堕落した人間の実状です。心と体が分かれた状態、これが苦痛の始まりです。
では、個性を完成した人とはどのような人でしょうか。原理はこう語ります。「心と体が神を中心として四位基台を成した人は神の聖殿となり、神の心情を体恤することによってその御旨を知り、そのとおりに生きるようになる」と。そして決定的な一言を付け加えます。そのような人は絶対に堕落することができない、と。
なぜ堕落できないのでしょうか。地獄が怖いからではありません。神の喜怒哀楽を自分のものとして感じるからです。皆様、愛する人を泣かせるようなことができるでしょうか。できません。したくないからしないのではなく、ただできないのです。それが原理の語る個性完成です。罪を我慢する人ではなく、罪にならない人なのです。
ところが、ここで誤解しやすいことが一つあります。完成と聞くと、皆が同じになることだと考えてしまいます。違います。これは「個性」完成です。神は八十億人を全員、違うようにお造りになりました。指紋も、虹彩も、声もすべて違います。この言葉はどういう意味でしょうか。神には、ただ私を通してのみ感じることのできる喜びがある、という意味です。私でなければ、神はその喜びを永遠に感じることがおできになりません。皆様お一人お一人が、神にとって代替不可能な貴い存在なのです。
第二祝福 ―― 家庭完成
私は、この箇所が原理の中で最も比類なき部分だと思っています。
皆様、人類の宗教史には驚くべき共通点が一つあります。ほとんどすべての宗教において、最も聖なる人は結婚をしません。カトリックの司祭がそうであり、仏教の僧侶がそうであり、ヒンドゥー教のサンニャーシンがそうです。「聖くなろうとするなら家庭を離れよ」というのが、数千年の宗教史の常識でした。家庭は世俗の場所だったのです。
ところが原理は正反対のことを語ります。「神の二性性相がそれぞれ個性を完成した実体対象として分立されたアダムとエバが夫婦となって合性一体化することにより、子女を繁殖し、神を中心とする家庭的四位基台を成さなければならない」というのです。
家庭こそが天国の教科書であり、訓練場です。結婚は世俗へ降りていくことではなく、創造完成の頂点なのです。
なぜよりによって家庭なのでしょうか。理由があります。神の愛は四つの形態によってのみ、完全に体験されます。子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、そして父母の愛です。この四つをすべて経験できる学校は、この世に家庭ただ一つしかありません。どれほど優れた神学校でも、どれほど深い修道院でも体験できません。
特にこの中で「父母の愛」が決定的です。皆様、子を産んでみて初めて親の心が分かる、という言葉がありますね。私はこの言葉が神学の頂点だと思っています。父母になってみる前には、神の心情を正しく知ることができないからです。子が病めば、父母は代わりに病みたいと思います。子が過ちを犯しても、父母は最後まで捨てることができません。神が六千年間、堕落した人類をお捨てになれなかった理由が、まさにこの「父母の心情」なのです。父母になってみた人だけが、その心情を理解することができます。
ですから結論はこうです。神が人間をお造りになった本当の理由は、父母になりたかったからです。優れた僕を従えたかったのではなく、心情の通じる子女を抱いてみたかったのです。そして、その子女が育ってまた父母となり、天の父母様の心情を限りなく伝授していくことを願われたのです。これが心情の相続です。
第三祝福 ―― 主管性完成
原理は「神の形象的実体対象である人間と、その象徴的実体対象である被造世界とが愛と美を授受して一つになるとき、神を中心とする主管的四位基台が成される」と語ります。ところが、ここで「主管」という言葉を誤解してはいけません。主管は支配ではありません。搾取でもありません。授受してこそ主管です。父母が子女を「主管」する方式、まさにその方式です。
では、人間はどのようにして万物を主管するようになっているのでしょうか。原理の説明が実に興味深いのです。神は人間をお造りになる前に、これからお造りになる人間の性相と形状を形象的に広げて、万物世界を先にお造りになった、というのです。ですから人間は万物世界を総合した実体相、すなわち小宇宙だというわけです。
具体的な例を、原理講論は実感をもって説明しています。地球には植物に覆われた地殻があり、その中に地下水が流れ、その下には岩層に囲まれた溶岩層があります。人間も同じです。産毛に覆われた皮膚があり、筋肉の中に血管が流れ、その下に骨格と骨髄があります。地球とまったく同じ構造です。さらに、地球に「五大洋六大州」があるように、人間に「五臓六腑」があるのも決して偶然ではありません。
では、万物はいつその存在価値を得るのでしょうか。人を通してです。地中に埋まっている鉄鉱石は、自動車になり飛行機になるとき、初めてその価値を実現します。自然の存在価値は人間を通して実現されるのです。ちょうど、人間がいなければ神は現れる方法がなく、神がいなければ人間は存在価値をもつ方法がないのと同じです。
三大祝福は、なぜ人間にとって祝福となるのでしょうか
第一祝福・個性完成 ―― 畏れ多くも人間が天の父母様に似たのですから、祝福です。
犬や虎は神に似ることができませんでしたが、人間だけが天の父母様に完全に似て生まれました。ですから祝福なのです。
第二祝福・家庭完成 ―― 畏れ多くも人間が天の父母様の愛を完成できるのですから、祝福です。
いかなる動植物も、神の愛を完成することはできません。ただ人間だけが、それをなしうる祝福を受けました。
第三祝福・主管性完成 ―― 畏れ多くも人間が天の父母様に代わって天地万物を主管できるのですから、祝福です。
天地万物・大宇宙の中で、人間は時間的に見ても空間的に見ても、実は塵にも及びません。それにもかかわらず、天の父母様はその人間に万物の主管を任せてくださいました。
このような三大祝福を完成した人間は、天の父母様の見える実体となります。ですから祝福となるのです。
第三の大転換 ―― 二重目的
原理講論は、すべての存在が「二重目的」をもつと語ります。「全体のための性相的な目的と、自体のための形状的な目的、この二つをあわせもつ連体」だというのです。そしてこう断言します。全体的な目的を離れて個体的な目的はありえず、個体的な目的を保障しない全体的な目的もありえない、と。私は、この一文が二十世紀全体に対する解答だと思っています。
皆様、二十世紀は何をめぐって争った世紀だったでしょうか。まさに、この二つの目的観が争った世紀でした。共産主義は全体のために個人を犠牲にしました。自由民主主義は個人の自由を優先しました。互いに譲ることのできない二つの価値観の戦争によって、数千万人が犠牲になりました。ところが原理は、その争いそのものが誤った前提の上に立っていると語ります。この二つは、本来争う関係ではなく、相生の関係なのです。
ご自分の体をご覧ください。心臓は自分のために拍動しているのでしょうか、体全体のために拍動しているのでしょうか。両方です。心臓が全身のために拍動するとき、心臓自身が最も健康です。体が健康であってこそ、心臓も生きます。ここには争いがありません。
ですから原理は、万物がこの二重目的によって絡み合った一つの雄大な有機体であると語ります。個人の幸福と全体の平和が同じ方向を指し示す世界、それが私たちの言う平和です。私たちの言う平和は政治的な妥協ではありません。まさに創造原理の復帰なのです。
天の父母様の創造目的は地上天国
ほとんどの宗教は、この地上を通過する場所と見ます。苦痛の海、試験場、仮の住まいです。本当の舞台は死んで行くところだと教えます。
ところが原理は違うことを語ります。創造目的が成し遂げられていたならば、罪の影さえ見いだせない理想世界がこの地上に実現していたはずであり、それを地上天国と呼びます。そして、本来人間は地上天国に生きて、肉身を脱げばそれと同時に自動的に天上天国の生活をするように造られた、と語ります。
「自動的に」。この言葉が実に素晴らしいのです。死んで審査を受けて入るのではありません。ここで生きていたとおりに、そのまま続いていくのです。では、天国とはどのような姿でしょうか。原理講論の定義が見事です。「天国とは、個性を完成した人間一人の姿に似た世界である」と言います。私たちの体において、心の命令が中枢神経を通して全身に伝えられ、すべての肢体が一つの目的に向かって動くように、天国では天の父母様の愛が人類の真の父母を通してすべての子女に伝えられ、全人類が一つの目的に向かって動く、というのです。
人生の主語も目的語も愛です
サルトルは、帰るべき故郷を見つけられませんでした。
ショーペンハウアーは、日が暮れるまでベンチに座り、自分がどこから来たのかをついに知ることができませんでした。
人類最高の知性たちがそうでした。ところが、私たちには答えがあります。
私たちはどこから来たのでしょうか。天の父母様の愛から来ました。
なぜ生きるのでしょうか。その愛を完成するために生きます。
どこへ行くのでしょうか。その愛の懐へと帰ります。
出てきたところがあり、なすべきことがあり、帰るべき故郷があります。
今日確認したことを、もう一度整理してみてください。
キリスト教は栄光と言い、私たちは喜びと言います。
イスラム教は僕と言い、私たちは子女と言います。
仏教は輪廻から抜け出せと言い、私たちはこの地上に天国を建てよと言います。
哲学は答えを見つけられず、私たちは答えを受けました。
唯物論は人間を手段にし、私たちは人間こそ創造目的そのものだと言います。
科学は始まりを語りましたが、私たちは「なぜ」を知っています。
これが、私たちがいつも聞いてきたあの原理です。皆様、私たちは人類が六千年間探し求めてきた答案を手にしています。ところが、あまりにも慣れ親しんでしまったために、その値打ちを忘れて生きてきました。今日、その値打ちをもう一度つけ直していただきたいと思います。
私たちの人生の主語も愛であり、目的語も愛でなければなりません。創造主が初めて私をお造りになったその目的、まさにその愛と喜びの場へ、今日、私たち皆が共に帰っていかれることをお祈りいたします。〈終〉
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