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Universal Prime Energy · Give and Take Action · The Four Position Foundation
[Summary: Universal prime energy and give and take action are the great principles by which God…
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万有原力・授受作用・四位基台
[要約:万有原力と授受作用は、神と被造世界が存在するための大原則であり、正分合作用と三対象目的と四位基台は、人間が生きていく上での生活原理です。よく与えよく受けるためには、まず相手のために先に与え、縦的なものを通して、善なるものを見返りなく授受しなければなりません。万物はこの原理のままに自然に生きていますが、人間は学んで実践しなければなりません。四つの存在が互いのために生きるとき、四位基台が成り立ち、それがすなわち、天の父母様をお迎えした真の家庭です。] #万有原力・授受作用・正分合・四位基台をやさしく解きほぐす なぜ関係は「先に与える人」から始まるのか 人間関係が行き詰まると、私たちはつい、相手が先に手を差し伸べてくれるのを待ってしまいます。自分が与えた分だけ返してもらえなかったと感じると寂しくなり、もう先には与えたくないという気持ちも生まれます。ところが統一原理は、関係が動く順序を、まったく逆に説明します。受けてから与えるのではなく、まず与えて、よく受けること。この小さな順序こそが、人と人の間だけでなく、家庭や共同体を動かす力になるのです。今日は難しく聞こえる万有原力、授受作用、正分合、三対象目的、四位基台を、花と蜂、種と家庭の姿でやさしく解きほぐしていきます。 まず要点だけまとめると万有原力とは、すべての存在と力の根源となる、神様の力です。授受作用とは、主体と対象がよく授受するときに、新しい力が生まれる過程です。正分合とは、一つから分かれた二つが関係を結び、より大きな一つを成す原理です。三対象目的とは、自分を中心に置かず、残りの三つの対象のために生きることです。四位基台とは、天の父母様を中心に、家族が愛を授受する土台です。結局、これらすべての概念は、一つの実践へとつながります。見返りを期待する前に、まず与えることです。 一、すべての存在を動かす根源、万有原力私たちの心臓は今も鼓動しており、季節は絶え間なく循環し、数多くの命が生まれては育っています。統一原理では、このようにすべての存在が生き、動くことをできるようにする根源的な力を、万有原力と呼びます。名前は似ていますが、物理学でいう万有引力とは異なる概念です。万有原力は単なる物理的エネルギーではなく、神様と被造世界が存在し、互いに関係を結べるようにする根源の力を意味します。難しく考える必要はありません。万有原力とは、すべての存在と関係を可能にする、神様の根源的な力だと理解すればよいのです。 二、関係に力が生まれる過程、授受作用授受作用の「授受」は、与える「授」と受ける「受」を使います。先に受けてから与えるのではなく、まず与えて受けるという順序が込められています。自然の中にも、こうした関係を容易に見いだすことができます。花は香りと蜜を差し出し、蜂は受粉を助けます。互いに授受する過程の中で、花は実を結び、蜂は命をつないでいきます。人と人の間も同じです。「自分はこれだけしてあげたのに、あの人は自分に何をしてくれただろうか」と計算し始めると、関係はだんだん重くなっていきます。反対に、一人が先に心を開いて温かい言葉をかければ、閉ざされていた関係に再び流れが生まれます。授受作用とは、単に物をやり取りする行為ではありません。心と愛、信頼と責任を授受しながら、共に生きていく力を生み出す過程なのです。 三、よく授受するための四つの原則授受作用が健やかに成り立つには、四つの原則が必要です。第一に、相手のために先に与えます。第二に、一時的な感情や利益だけに従わず、天の意志と良心という中心を守ります。第三に、互いのためになる、善なるものを授受します。第四に、見返りを計算しません。とりわけ最後の原則が重要です。「自分はこんなにしてあげたのだから、あなたもその分だけ返すべきだ」と思った瞬間、愛は取引になりやすいのです。真の愛は、相手の反応を確かめてから始まるものではありません。自分が先に与えられるものを探すところから始まります。 四、二つがより大きな一つを成す過程、正分合正分合とは、一つから二つが分かれ、その二つが関係を結んで再び一つの実を結ぶ過程です。一粒の種が地に蟲かれて育てば、雌しべと雄しべに分かれます。二つは受粉を通して、再び新しい種を結びます。一つが二つになり、その二つが関係を結んで、より大きな命へとつながっていくのです。人も互いに違うからこそ、関係を結ぶことができます。夫婦は完全に同じである必要はありません。異なる二人が同じ目的を見つめて助け合うとき、二人を超えた新しい家庭と愛の実が生まれます。違いは必ずしも争いの原因になるわけではありません。同じ中心と目的に向かうならば、互いの不足を满たし合う力になり得ます。正分合は、相手に勝たなければ成長できないという見方よりも、互いに授受し、協力し合うときにより大きな一つを成し得る可能性を示しています。 五、この原理が家庭の中で成り立つならば三対象目的という言葉も難しく聞こえますが、家庭に当てはめれば少しやさしくなります。家庭の一人の構成員が、自分だけを中心に置かず、残りの三つの対象のために生きていくこと、それが三対象目的です。夫は天の父母様と妻と子女のために生き、妻は天の父母様と夫と子女のために生きます。子女もまた、天の父母様と両親を愛しながら育っていきます。このように、四つの位置が互いのために愛を授受する土台、それが四位基台です。同じ家に共に住んでいるからといって、自然に真の家庭になるわけではありません。家族が互いに「自分が先に与えられるものは何だろうか」と考え、その中心に天の父母様の愛をお迎えするとき、真の家庭が成り立ちます。天の父母様は、遠く離れた場所にだけいらっしゃる方ではありません。夫婦が互いを尊重し、親と子が心を分かち合って愛によって一つになる、その中心に共にいてくださいます。 六、なぜこの原理が今必要なのか今日、私たちは、相手が先に変わってくれるのを待つことに慣れてしまっています。夫婦の間でも、親子の間でも、共同体の中でも、誰がより多くしたかを計算してしまいます。しかし、すべての人が受けることだけを待っていれば、関係は動きません。誰かが先に温かく挨拶し、先に話を聞き、先に「ごめんなさい」と言わなければなりません。大げさな犠牲でなくてもかまいません。今日、家族に温かい言葉を先にかけること、頼まれる前に小さな家事を手伝うこと、相手の話を遅らずに最後まで聞くことから始められます。 今日、一つだけ実践してみるなら今日一日、こう問いかけてみてください。自分がこの人に先に与えられるものは何だろうか。見返りを求めずに差し出した小さな一言と行動一つが、止まっていた関係を再び流れさせることができます。その一度の「先に」から授受作用が始まり、愛が動き、家庭の中に天の父母様が共にいてくださる場所が整えられます。難しく感じられた万有原力と授受作用、正分合と四位基台が指し示す生活の結論は、意外に単純です。まず与え、愛によって一つになることです。
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만유원력 · 수수작용 · 사위기대
[요약: 만유원력과 수수작용은 하나님과 피조세계가 존재하는 대원칙이요, 정분합작용과 삼대상목적과 사위기대는 사람이 살아가야 할 생활원리입니다. 잘 주고…
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The Dual Characteristics of Heavenly Parent
[Summary: Beginning from the premise that our understanding of God determines our view of life and…
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天の父母様の二性性相
[要約:神観が人生観と生活のすべてを決定するという前提から出発し、まず世の中の神観を研究してみましょう。イスラム教は人間を服従する僕として、キリスト教は養子として立て、仏教・儒教・無神論もまた人間の尊厳の絶対的な根拠をもつことができませんでした。原理は、因果法則と似る法則によって神様を知ることができると教えます。万物は例外なく、陽性と陰性、性相と形状という二性性相として存在します。第一原因である神様は、本性相・本形状、本陽性・本陰性の中和的主体であられ、本性相は喜ぼうとする「心情」であるがゆえに、神様は能力があり余って創造されたのではなく、愛する対象を創造されたのです。陽性と陰性は横的に絶対平等であり、性相と形状は二つではなく一つであるため、唯心・唯物の論争を終わらせる唯一論です。結論として、二性性相の神様こそが「天の父母様」であり、基元節にその本来の名前をお返ししたのです。人間は神様の見える体であり、この神観は男女の葛藤・人間の尊厳・宗教の葛藤・環境・AI時代の答えとなる真の神観です。] 愛する食口の皆様、きょう私は、私たちの信仰の最も底に据えられている礎石を、もう一度確認したいと思います。誰かが皆様に「あなたが信じる神様は、どのような方ですか」と尋ねたら、何と答えられるでしょうか。この問いにはっきりと答えられる人と、答えられない人の人生は、まったく違います。神観が人生観を決定し、人生観が生活を決定し、その生活が永遠を決定するからです。私たちの天の父母様聖会は、世の中の数多くの宗教の中の一つではありません。ところが、私たちの子女の中にも、そのような信仰観をもっている青年が意外に多いのです。私たちがつかんでいるこの原理は、数万の教えの中の一つではなく、人類が六千年の間問い続けながら、ついに答えられなかった、まさにその答えであるということを知らなければなりません。それできょうのみ言のタイトルは「真の父母論1:天の父母様の二性性相」です。それでは皆様、ご一緒にみ言の訓読をいたしましょう。 *(真のお父様)原理は二性性相を語ります。なぜ二性性相が必要なのか。二性性相がなければ、創造の調和を成すことができません。二性性相があるからこそ互いに授け受けすることができるのであり、創造の妙味を成すために必要なのです。ですから、すべての存在世界は対をなして存在するのです。なぜ双々制度になっているのか。愛のためです。本然の神様が喜ぶことのできる本然の真の愛によって存続するのです。 きょう私たちは、世の中の神観と私たちの神観を並べて比べてみましょう。比べてみて初めて、自分のものが分かるからです。まず、他宗教の神観から見ていきます。 *イスラム教 イスラム教の神観は、神の絶対的な唯一性と超越性です。人間はアッラーの被造物であり、「僕(しもべ)」です。「イスラム」という言葉の意味が「神への完全な服従」です。アッラーを人の姿で描くこと、人間に似ていると語ることを冒瀆と見なします。神のいかなる像も造ってはなりません。ただ絶対服従があるだけです。ですからイスラム教徒は、信仰の戒律を守ることが徹底しています。一日五回、決まった時刻にメッカに向かって祈ります。ラマダーンの期間には日の出ている間は断食し、余裕のある人は生涯に一度、メッカへの巡礼を義務のように果たします。心情でお仕えする生活ではなく、義務であり責任であるからこそ、一糸乱れぬのです。しかし原理的に見るとき、根本的な限界があります。僕であるがゆえに、子女がもち得る尊厳をもつことができません。特に女性の尊厳は非常に乏しいのです。ですから律法上、能力のある男性は四人まで妻を娶ることができるのです。また一部の過激な勢力は、神の名によって無慈悲なテロを行い、敵を斬首することさえあります。このようなことは、親と子女の関係においては想像もできないことです。そしてこれは、信じる信仰者だけの問題では終わりません。そのような神観が文化になれば、国民全体がその神観の影響のもとに生きるほかないのです。 *無神論と世俗的人本主義 神を前提としない現代の世俗倫理は、人間の尊厳を理性と社会契約から引き出します。しかし「なぜ人間は尊厳なのか」についての形而上学的な根拠が弱いのです。人間存在の絶対的な根拠がなければ、尊厳もまた相対化されます。資本主義社会において、人が人に能力によって値段をつける瞬間、安売りされる人間が生じるからです。 *キリスト教 キリスト教徒が信じる三位一体の父なる神様と、イエス様が感じられた父なる神様との間には、大きな違いがあります。イエス様は「アバ、父よ」と呼ばれ、「わたしのうちにおられる父、父のうちにいるわたし」と語られるほど、神様を一体として感じ、言動され、実の父としてお仕えになりました。しかしキリスト教徒が感じる神様は、イエス様が感じられた神様とは大きく異なります。信じる前は罪人であり主の僕でしたが、「霊の初穂を受けた私たちでさえ、心の内でうめきながら、神の子とされること、すなわち体が贖われることを待ち望んでいる」(ローマ8:23)とあるように、イエス様を信じることによって養子として迎え入れられた立場なのです。 これを例えて説明すると、理解が早くなります。ある主人の家に僕たちがいましたが、その主人には子女がいませんでした。それで寂しい主人が、僕たちの中で自分をよく信じ、よく従う気に入った僕がいたので、その僕を養子として迎え入れたのです。それでは、その養子となった僕は、主人の前で実の子のように甘えたり、思いのままに振る舞ったりできるでしょうか。いつも主人の顔色をうかがい、言葉と行いに気を遣うでしょう。これが、今のキリスト教徒が感じる父なる神様です。ですから牧師でさえ、講壇で自らを「主の僕」とへりくだって呼ぶのです。イエス様だけが神様と一体である実子であり、自分たちは心情的に養子として迎えられた子女です。決して近づきがたい超越的な距離があります。本質は、生まれからして主従関係だったからです。そのような神観に従ったからこそ、キリスト教国家が植民地開拓の時代に、弱い異邦の民族を奴隷とすることができたのです。人間はもともと僕であったのだから、不思議でも何でもないというわけです。あるいは同じキリスト教徒であっても、白人のキリスト教徒が黒人のキリスト教徒を僕のようにこき使うことができたのです。同じ親をもつ兄弟姉妹であれば、そのようなことはできません。私たち祝福家庭同士が、人種が違うから、弱いからといって、戦い、殺し、僕としてこき使うことができるでしょうか。私たちは天の父母様の前に一つの兄弟姉妹ですから、そのようなことはできません。これが神と人間の関係から出てくるのです。 *ひと目で見る神観の比較 区分 神とは 人間の位置 神観の限界…
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하늘부모님의 이성성상(二性性相)
[요약: 신관이 인생관과 삶 전체를 결정한다는 전제에서 출발해, 먼저 세상의 신관을 연구해보자. 이슬람은 인간을 복종하는 종으로,…
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현관에서 시작되는 천국(인사법)
[요약: 같은 날 교회 문을 연 두 사람의 정착을 가른 것은 설교가 아니라, 먼저 다가간 한…
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Heaven Begins at the Front Door (On the Practice of Greeting)
[Summary] Two people opened a church door on the same day, and what decided whether they…
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玄関から始まる天国(あいさつの仕方)
[要約] 同じ日に教会の扉を開けた二人の定着を分けたのは、説教ではなく、先に近づいた一人の人でした。真の御父母様は、万民をわが子のように愛することがすなわち神様のように愛することであると語られました。新しい食口を迎えることは牧会者の役目ではなく、私たち皆の務めです。私たちを阻むのは、「うちの教会はすでに温かい」という錯覚、見知らぬ人への負担感、「誰かがやるだろう」という先送りです。定着は、何人もの友ができたときに成し遂げられます。三つのことを決断しましょう。神様にお会いしたように喜んであいさつすること、初めて来られた方に先に近づくこと、新しい人の名前を覚えて呼んで差し上げること。互いを神様のように迎えるその場所、天国は玄関から始まります。 すべてのあいさつの中で、真っ先にすべき最上のあいさつは、どなたから始めるべきでしょうか。目には見えませんが、天の父母様です。週の初めの聖日、明け方の家庭敬拝式から天の父母様にごあいさつを申し上げなければなりません。そして毎日、起きるとき、出かけるとき、帰ってきたときに、真の御父母様の御尊影の前であいさつを申し上げてから出発すべきです。これがすべてのあいさつの筆頭であり、これが最初の出発となるならば、万事が順調に運ぶことでしょう。神様に対してもそうですが、人に対しても、最初のあいさつが崩れれば万事が崩れます。本日は、人と人との間のあいさつの仕方について御言を申し上げたいと思います。 今日は、二人の話から始めたいと思います。同じ日の同じ時刻に、それぞれ違う教会の扉を開けた二人の話です。一人目の人は、何週間もためらった末に、ようやく勇気を出しました。クローゼットの前で長いこと行きつ戻りつし、駐車場に車を停めてからも十分ほど座ったまま、やっと勇気を出して入ってきました。扉を開けると人が座っていましたが、誰も彼を見ませんでした。人々は互いにひそひそと、仲むつまじく見えました。席に着こうとすると、どこに座ればよいのか迷いました。結局、いちばん後ろの列の端に座りました。賛美も恵み深く、御言も良いものでした。ところが礼拝が終わってからの十分間、彼に声をかけた人は一人もいませんでした。彼は静かに出て行きました。そして二度と来ませんでした。 二人目の人も、同じように震える手で扉を開けました。ところが扉の前に立っていた一人が、目を合わせて微笑みました。「ようこそいらっしゃいました。初めてお目にかかると思います。私は金執事です。」それだけでした。大したことばでもありませんでした。それなのに、礼拝の間じゅう心がずっと落ち着いていました。礼拝が終わると、その人がまた近づいてきました。「今日はいかがでしたか。私とお茶でも一杯いかがですか。」そして、そばにいた二人をさらに紹介してくれました。翌週、彼はまた来ました。そして今、彼は私たちの隣の席に座っています。 食口の皆様、二人の違いは何だったでしょうか。説教の違いではありませんでした。施設の違いでも、賛美の違いでもありません。違いは、ただ一人の人でした。先に近づいて自分の名前を差し出した一人の人です。今日、私は皆様にお尋ねしたいのです。私たちの教会の扉を初めて開けた人は、この二つのうちどちらの経験を抱いて帰っているでしょうか。私たちは互いを信徒とは呼ばず、家族のように食口と呼びます。ところが、その尊い呼び名を持ちながらも、近ごろの私たちは、新しく来た人を迎えることにたいへん不慣れになってしまいました。ですから、今日の御言の題は「玄関から始まる天国」です。 (真の父母経 一九七一年十一月二十一日)「どのような社会であっても、年上の人に接するときは、わが祖父、祖母であり、わが父、母であり、わが兄、姉であると思うことのできる心情をもたなければなりません。そのような心情が普遍化し得る環境が広がる所であるならば、そこは間違いなく天国です。そのように生きる人は、どこへ行っても反対を受けません。彼がどこへ行こうとも、神様は共にいてくださるのです。」 真の御父母様は、新しい人を迎える私たちの姿勢を、実にはっきりと明かしてくださいました。どのような社会であっても、年上の方にお会いしたなら、わが祖父、祖母として、わが父、母として、わが兄、姉として思うことのできる心情をもたなければならない、ということです。そして、そのような心情が普遍化する所であるならば、そこは間違いなく天国であると語られました。この御言を静かに見つめてみてください。真の御父母様は、天国をある建物や制度として説明されませんでした。人に接する心情が変わったその場から天国が始まると語られたのです。ですから、今日、私たちの教会の玄関で、初めて来られた方をどのような顔で迎えるのか、それがそのまま、ここに天国が臨むか否かを決める事柄なのです。私たちは今、玄関で天国を建てているのです。 (真の父母経 一九七九年一月一日)「家庭教会の働き手は、神様のように教えることができ、神様のように愛することのできる人でなければなりません。父母の立場で愛することのできる教会、そのような人、そのような国民、そのような世界人類となる日には、神様が地上のどこにでも行幸されて天国となり得るのです。」 (天聖経 一九九二年一月二十日)「万民を子女のように愛する人は、神様のように愛しているのです。」 家庭教会の働き手は、神様のように愛することのできる人でなければならないと語られます。神様のように愛するということばが、あまりに難しく聞こえるでしょうか。万民を子女のように愛する人、その人こそが、神様のように愛する人です。子女が久しぶりに家に帰って来ると、私たちはどうするでしょうか。門の前まで出て行きます。手を握ります。ご飯は食べたのかと尋ねます。帰るときには門の外まで見送りに出て、車が見えなくなるまで手を振ります。誰かが教えてくれなくとも、私たちは子女をそのように愛をもって迎えます。新しい食口を迎える仕方も、まったく同じです。私たちはすでにその方法を知っています。ただ、その心をまだ見知らぬ人にまで開けずにいるだけなのです。 ですから私は今日、この一つのことを食口の皆様の心にしっかりと植えて差し上げたいのです。新しい食口を迎えることは、担当牧会者の仕事ではありません。今この場に座っている私たちの務めです。私たち皆が神様をお迎えする者だからです。神様をお迎えする者は、いつでも神様をお迎えする心の準備ができていなければなりません。そして、私たちが待ち望んできた神様は今日、初めて来られたその方の顔をして来られるのです。 皆様、覚えておられますか。皆様が初めてこの教会の扉を開けた日を覚えておられますか。どこに座ればよいのか分からずきょろきょろしていたあの瞬間、礼拝の順序が分からず隣の人をちらちらと見ていたあの瞬間をです。あのとき誰かが皆様に喜んで近づいてくれたからこそ、皆様は今ここに座っておられるのです。誰も関心を寄せてくれなかったなら、皆様もこの席にはいらっしゃらなかったでしょう。 真の御父母様は、私たちに「ために生きる」生き方を教えてくださいました。ために生きる生き方は、大きな事柄から始まるのではありません。目の前の一人に先に近づくところから始まります。神様もそのようにされました。私たちが神様を訪ねて行ったのではなく、神様が私たちを訪ねて来てくださいました。それが天の愛です。愛は趣味ではありません。愛とは、私が受けた愛を、体をもってもう一度書き記していく営みです。 「うちの教会は温かい」という錯覚(一分の動画) 動画で御覧になったとおり、私たちが必ず越えなければならない壁が一つあります。その壁は無関心でも冷たさでもありません。「私たちはすでに温かい」という、私たちだけの錯覚です。教会文化を研究するある方が、こういう話を聞かせてくれました。数千の教会を訪ねる中で最も多く聞いたことばが、「うちの教会は本当に温かい教会です」だったというのです。ところが、同じ教会を初めて訪ねた人たちに尋ねると、答えは正反対だったといいます。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。答えは簡単です。私たちは互いに、本当に温かいからです。礼拝の後に分かち合うあの笑い、喜んで迎え合うあの温もりは、すべて本物です。…
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한민족 선민 대서사시 ‘참부모의 언어’
[요약: 한글은 580년 전 세종대왕이 발성 기관의 원리를 문자에 담아 창제한 세계 유일의 ‘자질문자’입니다. 자음은 오행,…
