韓民族・選民としてのアイデンティティの回復

韓民族・選民としてのアイデンティティの回復

【要約】 真のお母様(韓鶴子/家庭連合・統一運動の共同創設者)が獄中でも「韓民族選民大叙事詩(ハンミンジョク・ソンミン・デソサシ)」の教育を繰り返し強調されるのは、韓民族が全世界を救う選民としてのアイデンティティを失いつつあることを深く憂慮しておられるからである。真の選民とは、祝福だけを受ける高慢な存在ではなく、苦難を乗り越え、他者のために犠牲となり、敵までも愛する民族である。かつてイスラエルは高慢に陥ってメシヤを見分けられず、摂理を誤らせた。今日の韓国キリスト教もまた、再臨への熱望を失い、外的な基準によって真の父母を排斥し嘲笑するという過ちを犯している。天は、かつての韓国の熱い霊的諸グループの精誠の土台の上に真の父母を遣わされた。それゆえ、この時代の内的選民である祝福家庭は、韓民族が選民の使命に目覚めるよう教育し、真の父母を世に正しく知らせ、救援の摂理を完成させる歴史的責任を負っているのである。

(真のお父様のみ言葉、1985年12月11日) 韓民族の試練は、この民族自体だけのものではなく摂理的なものであり、神はこの民族がこれを乗り越えることを待ち望んでおられます。世界史の総合的遺産ともいうべき東と西、南と北、精神と物質、唯心と唯物の対決と混沌が凝縮し、朝鮮半島で渦巻いているのも、あたかも新時代を身ごもった産婦の身もだえのようなものです。韓民族の民族的・国家的困難は、神の御旨と摂理を離れては解決できず、韓国単独としてではなく、世界との関わりの中でのみ解決が可能だと考えます。

(真のお父様の自叙伝より) わが民族の心の中には、敵までも愛する心があります。敵を愛し、受け入れるには、絶えず自らを治めなければなりません。自分の内側がすべて膿んで破れた後にこそ、初めて敵を愛せる心の余裕が生まれるものですが、わが民族はまさにそのような心を持っていました…。迫害を受ける人は、神に最も近いのです。

(真のお母様の自叙伝より) 私は時々、愛国歌(韓国の国歌)の「神が守りたまいて、わが国は万歳」という一節を思い起こします。なぜ神は、わが国を、わが韓民族を、歴史的に困難で苦しい峠ごとに守ってくださったのでしょうか。考えてみると、それは神の御旨を成し遂げようとされる摂理があったからです…。結局、神は、選民として選ばれた韓民族の中に、人類のメシヤ・真の父母としてお越しになった独り子と独り娘をお守りにならねばならず、そのための国連の参戦(朝鮮戦争への参戦)は、天の決断によって成されたのです。

なぜお母様は「韓民族選民大叙事詩を教育せよ」と繰り返されるのか

真のお母様は獄中で、面会に来る食口(シック=信徒・家族)に、いつも同じみ言葉を語られます。「韓民族選民大叙事詩を全国民に教育しなければならない。」面会のたびに、このみ言葉を語られます。正直に言えば、私たちが初めてこのみ言葉を聞いたとき、こう思うかもしれません。「今、この切迫した状況で、そのみ言葉がどれほど助けになるだろうか」と。普通なら、法的な解決方法を語られたり、現政府の誤った司法判断を問題にされたり、デモをするように言われたりするかもしれません。しかし、そのようなみ言葉は一切ありません。ただ一つ、「韓民族が選民であることを知らせなければならない」と。面会に来るどの指導者にも、同じこのみ言葉だけを繰り返しておられます。いったいこのみ言葉には、どれほど深い意味が込められているのでしょうか。

お母様が最も憂慮しておられること

私はこう感じます。お母様は、韓民族が自分自身のアイデンティティを失いつつあることを、大変憂慮しておられるのです。考えてみてください。自分が誰なのかを知らなければ、どうなるでしょうか。どこへ行くべきかも分からず、何をすべきかも分からず、どんな責任があるかも分からないまま、見当違いの道に陥っても、それにすら気づかないのです。道を見失ったことさえ知らずにさまようのです。お母様がおっしゃりたい核心はこれです。この韓民族は、真の父母をお迎えし、全世界を救う宿命を持った民族である。これを国民一人ひとりが悟らなければならない、ということです。

選民とは何か ― 誤った選民観を正そう

ところで、ここで一つ、必ずはっきりさせておくべきことがあります。「選民」という言葉を聞くと、どんな考えが浮かびますか。もしや「天の祝福を受けた誇らしい民族」と思っていませんか。そう考えては絶対にいけません。今日の初めに訓読した(共に読んだ)み言葉を、もう一度思い起こしてください。選民とは、世界を救う責任のために犠牲と苦難を経て乗り越えた民族であるがゆえに、天が選び、育て上げられた民族のことを言うのです。自分の民族だけのための選民は、高慢に陥り、天の摂理を誤らせます。

イスラエルの教訓 ― 高慢な選民が摂理を台無しにした

イスラエル民族を見てください。彼らは、天の選びを受けた選民であることをはっきりと知っていました。ところが、問題は何だったでしょうか。彼らは「神はわが民族だけのために祝福してくださった」という、高慢な選民意識に陥ったのです。メシヤが来られれば、イスラエルの民を解放し、周辺諸国を支配する超大国になるだろうと固く信じていました。高慢な選民になってしまったのです。それゆえ結局、摂理を誤らせてしまいました。

彼らが待ち望んだメシヤは、どのような方だったでしょうか。威風堂々と天の雲に乗って来られる強力な指導者。モーセより能力があり、エリヤやソロモン王よりはるかに優れたスーパースターのような英雄。このようなメシヤを待っていたのです。ところが、実際にはどのような方が現れたでしょうか。ベツレヘムの田舎出身、三十歳の独身男性が現れたのです。その弟子たちは、いずれも漁師や取税人でした。モーセの律法に背くように見え、神が自分の父であるという「妄言」を吐き、父母や妻子よりも自分をもっと愛せと教えました。当時の人々には、到底理解しがたいみ言葉でした。

ところが、さらに衝撃的なみ言葉がありました。

「あなたがたの敵であるローマまでも愛しなさい。」

皆さん、これがどれほど革命的な宣布であったか考えてみてください。「目には目を、歯には歯を」が当時の正義でした。敵であるローマに踏みにじられている状況で、その敵を愛せというのです。今でも、イスラエルはパレスチナやイランにどうしているでしょうか。一発殴られれば十発で返します。そのような民族に「敵を自分の体のように愛しなさい」というみ言葉は、その時代、その状況の中では、ほとんど不可能に近い宣布だったのです。

左の強盗の嘲り、そして今日の嘲り

結局イエス様は、宗教裁判と政治裁判を相次いで受けられ、十字架という処刑台に掛けられました。十字架刑。これは、天の最も大きな呪いを受けた罪人を処刑するときにのみ用いられる、恐ろしい刑罰でした。そのとき共に掛けられた左の強盗は、何と言ったでしょうか。

「お前が本当に神の子なら、自分と私を十字架から降ろしてみろ。」

これはどういう意味でしょうか。「お前が本当に神の子なら、お前の父がどうしてお前をこのまま放っておかれるのか。どう考えても、お前が神の子であるはずがない。本当に子なら、なぜ助けないのか」と。このように、死刑囚が死刑囚を嘲ったのです。

皆さん、この場面が、今の真のお母様の境遇とあまりにも似ています。今、世の人々は、韓鶴子お母様に向かって何と言っているでしょうか。「お前が神の最初の愛を受けた独り娘だと? 笑わせるな。ならば、なぜお前の神はお前を獄中から救い出すこともできないのか。最側近に裏切られ、目も見えず、歩くこともできず、心臓病まで抱えて自分の病も治せない者が、誰を救うというのか。お前こそ、神に救ってくれと頼んでみろ」と。このように嘲るのです。二千年前も今も、まったく同じです。

世の人々のメシヤ観 vs. 天の父母様の願い

世の人々がメシヤ、救世主、再臨主を見る目は、天の父母様(神を指して用いる呼称)の願いとはまったく異なります。世は、モーセのように、ダビデ王のように、エリヤのように偉大な預言者、悪霊も捕らえ、世の権力も屈服させる超能力の強力な指導者を期待します。人としての姿形さえ、私たちとは違うだろうと想像します。しかし、イエス様も、真のお父様も、真のお母様も、外的な姿は私たち人間とあまりにも同じでした。異なるのは、ただ内面だけです。天の父母様との一心・一体・一念・一和。人間への愛。そして高次元のみ言葉。これが異なるのです。それを見分けるには、霊的感覚が並外れているか、共に生活してみて初めて感じられる、内的な違いなのです。

それゆえ、天の父母様に似た内的実体としてお越しになり、人間の内的な病弊を治され、天の父母様の理想以上の国を再創造されるのです。外的な世界が変わるのは、国がみ言葉に従って変わり、法が変わって初めて、徐々に変わっていくものです。ところが世は、見えるもの、外的なものだけですべてを判断しようとします。まさにこれが問題です。世の人々のメシヤ観が、天の父母様の願いと根本的に角度が異なるため、お越しになったメシヤ・再臨主様、独り娘が歩まれる道が、これほど険しいのです。

真の選民とは

それゆえ、もう一度はっきりと申し上げます。選民とは、天の祝福を受けて自分の自慢に酔いしれて生きる民族のことではありません。選民とは、苦難の中で乗り越えた強靭な民族であり、他者のために犠牲となる民族であり、敵までも愛する民族となる素地を持った民族のことを言うのです。お越しになった真の父母を正しくお迎えし、神の夢を中心として、世の救援の摂理を完成させる真の民。それこそが選民です。韓民族こそ、まさにそのような民族でした。天の父母様が、韓民族をそのように育ててこられました。ところが残念ながら、今やそのアイデンティティを失いつつあります。実は、選民としての心性、その心の基盤は、天の父母様と私たちの先祖が、それなりによく育ててこられました。ところが決定的に、キリスト教がその使命を果たせなかったのです。なぜそうなったのか、お話しいたします。

キリスト教はいかにして使命を逃したのか

まず、聖書の核心が何であるかを考えてみましょう。旧約の約束、すなわち「古い約束(旧約)」とは何でしょうか。イスラエルにメシヤを遣わすという、天の約束でした。ところがユダヤ人は、お越しになったイエス様をお迎えできず、失敗しました。そこでイエス様が新たに立てられた約束こそ、新約のみ言葉です。新約の核心は何でしょうか。「わたしは再び来る。」この新しい約束が新約です。それゆえ新約聖書の至るところに、再臨についてのみ言葉が深く強調されています。十人のおとめのともしびのたとえ、人の子は思いがけない時に来る、その日は罠のように臨む、常に祈って目を覚ましていなさい、時を見分けなさい、婚宴のたとえ、災いの徴、ぶどう園のたとえ、いちじくの木のたとえ…。ヨハネの黙示録は、全体が再臨についてのみ言葉です。ですから、イエス様の再臨を切に待ち望む信仰者こそが正統なのです。イエス様を信じると言いながら、イエス様の再臨に切実でなければ、始まりと終わりが異なってしまったのであり、聖書的に見れば異端なのです。ところが、今日のキリスト教を見てください。再臨に対する信仰の形だけはあっても、待ち望む心や切実さは、ほとんど薄れています。始まりと終わりが、異なってしまったのです。

韓国キリスト教は、かつて世界で最も熱かった

1980年代までは、韓国キリスト教には、再臨主を待ち望む熱い信仰がありました。特に日帝時代(日本統治時代)の韓国キリスト教は、本当に霊的でした。どれほど熱かったでしょうか。米国のルビー・ケンドリックという若い女性宣教師が、1907年に韓国へ派遣されました。開城(ケソン)で福音を伝え、献身する中で、わずか9か月で急性虫垂炎により世を去りました。彼女が両親に送った最後の手紙には、こう書かれていました。

「もし私に捧げられる千の命があるなら、そのすべてを韓国に捧げます。」

外国から来た宣教師の目に映った韓国人の信仰は、それほど純粋で、霊的で、熱かったのです。平壌(ピョンヤン)は「東洋のエルサレム」と呼ばれるほど、信仰心が並々ならぬものでした。

当時の韓国は、信仰的情熱が非常に熱い国でした。そして、自称・再臨主が韓国に数多く現れました。イスラエル修道院(金百文)、暁の会(李龍道)、天父教(朴泰善)、龍門山祈祷院(羅雲夢)、元山グループ(白南柱)、永生教(趙煕星)、新天地(李萬熙)、神の教会(安商洪・張吉子)、三角山祈祷院(鄭得恩)、聖主教(金聖道)、腹中教(許浩彬)、統一教会(真の父母)など…。

天の父母様は、このような霊的諸グループを通して、人々の心霊と知能を高められ、再臨のための精誠の土台を築いてこられたのです。たとえ彼らが真のメシヤではなかったとしても、救世主を熱望するその精誠が集まり積み重なって、真の父母をお迎えするための基台を築いてこられたのです。まさにその精誠の土台の上で、ついに人類史上初めて、真の父母がお生まれになることができたのです。それゆえ真の父母は、彼らの基盤を受け継いで再臨の目的を成し遂げねばならなかったので、自ら金百文、李龍道、金聖道、許浩彬を訪ねて行かれ、精誠を連結させようとされたのです。たとえ彼らが真のお父様をお迎えすることはできなかったとしても、その精誠の根は、真の父母へとつながってきたのです。

キリスト教が再臨への熱望を消してしまった

ところが、キリスト教はどうしたでしょうか。再臨を熱望するすべての霊的な宗団の指導者たちを迫害し、異端と断罪し、拒否してしまったのです。その結果は何でしょうか。今日のキリスト教からは霊性が消え去り、再臨への熱望が冷たく冷めてしまいました。イエス様の再臨という絶対的希望の綱を、手放してしまったのです。これが、今日、真の父母がキリスト教から排斥されるようになった原因です。考えてみてください。キリスト教徒は、イエス様を神のように信じながら、まさに二千年前のユダヤ人がイエス様を嘲ったのとまったく同じ言葉を、今、真のお母様に浴びせています。「もし神の子なら、十字架から降りてみよ。そうすれば信じよう。」この言葉と、今キリスト教徒が言う言葉と、何が違うでしょうか。ですから、二千年前のパリサイ人こそ、まさに今のキリスト教徒なのです。イエス様は、そのパリサイ人たちに、どのようなみ言葉を語られたでしょうか。

(マタイによる福音書 23章)わざわいである、偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、その内側は死人の骨と、あらゆる汚れたもので満ちている…。

お母様の真の憂慮

今、韓国は、まさにこのようになりつつあります。お母様は、ご自身の苦痛よりも、まさにこのことを最も憂慮しておられるのです。選民が責任を果たせなかったために国を失い、二千年もさまよったユダヤ民族の歴史が繰り返されないことを切に願っておられるからこそ、面会に来るすべての方々に、韓民族選民大叙事詩を教育せよ、選民の責任と使命を教えなければならないと、あれほど力を込めて語っておられるのです。

では、今この時代の選民は誰か

では、今この時代の内的な選民とは、いったい誰でしょうか。まさに、全世界の祝福家庭です。選民は、真の父母をお迎えし、お知らせする責任を果たさなければなりません。それが、選民とされた者の使命です。韓民族選民大叙事詩は、まだ終わっていません。真のお母様の自叙伝も、今なお書かれ続けています。そして、その最終章の主人公は、ほかでもなく、真のお母様と共に歩む、私たち自身なのです。

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