韓民族選民大叙事詩(沈清の孝情)

【要約】 韓民族固有の精神である「孝情(こうじょう/ヒョジョン、孝=親への務めと、情=心・愛とが一つになったもの)」を主題とし、これを選民思想および統一文化の核心的価値として提示する。古典小説『沈清伝(シムチョンジョン)』を、単なる説話ではなく、天の啓示が込められた物語として解釈し、生命を超えた沈清の孝心を、人類救援の普遍的原型と見る。とりわけ、真の父母の生涯を通して、孝情が個人の道理を超え、国家と世界、さらには天宙(てんちゅう=全宇宙)を完成させる聖(せい、聖なる境地)へと昇華された。結論として、韓国の孝の文化は、韓流(ハンリュウ)の根幹であり、世を照らす光として、すべての人の霊的な目を開かせる奇跡の力となるであろう。

韓民族が選民として選ばれたことは、始まりにすぎません。天の父母様の地上天国を建設するには、それにふさわしい心性が、まず基(もとい)とならねばなりません。その基こそが「孝情(こうじょう)」です。韓民族が選民として召された背景には、まさにこの孝情の心情があります。真の父母のみ言葉を、共に訓読(くんどく)いたします。

(真のお母様の自叙伝より)孝情を思うと、私はいつも、胸の中に大きな悲しみとして居座っている長男・孝進(ヒョジン)と、次男・興進(フンジン)が思い浮かびます。親のために自分が何をすべきかを悩み、その道へ勇敢に進む人が、孝子(こうし)です。そういう孝子は、仕える精神で人々に接するので、どこででも歓迎され、必ず志を成し遂げます。自分ではない他者をすべて仕える「孝情」は、それゆえ偉大なのです。我が統一文化の特色を一言で表すなら、「孝情を根幹とする心情文化」です。「孝情」は、天の父母様に向けた私たちの精誠(せいせい)と愛です。

*【孝の意味】

「孝」という字には、深い意味が込められています。親が与えてくださった愛と生命と血統に心から感謝し、義務感からではなく、自発的にお仕えしようとする心です。いかなる対価も求めず、愛するがゆえに差し上げること、それが真の孝です。

今日、韓民族が数百年にわたって胸に抱いてきた、一人の少女の物語を取り出そうと思います。単なる昔の小説の話として見るべきではありません。天が選んだ韓民族のDNAの深い所に刻まれた孝情の原型であり、天の父母様が韓民族を選民として召された理由の一つです。まさに『沈清伝(沈淸傳)』です。

賢い郭(クァク)氏の母は、精誠こめて沈清を産み、七日で世を去ったので、目の見えぬ沈(シム)盲人は、血の塊のような娘を抱いて、もらい乳で赤子を至誠に育て上げ、六歳になったとき――

*【飯を乞いに出る沈清】

ある日、沈清が父に申し上げた。「烏(からす)のような鳥でさえ、夕方になれば食べ物をくわえてきて食べさせるのに、まして人が鳥に劣りましょうか。父上は目が暗いのに、飯を乞いに行かれて、転んで怪我をなさりやすく、風雨の荒れる日や雪霜の降る寒い日には、病を得られはせぬかと、昼夜案じております。今日から私が出て飯を乞うて、食事の心配を減らしてさしあげます。」盲人が言った。「お前の言葉は感心だ。情はそうだが、幼いお前を出して、座って受け取って食べる私の心が、どうして楽でいられよう。」沈清がまた申し上げた。「子路(しろ)は百里の道に米を背負って親を養ったといいます。人が昔と今で違いましょうか。意地を張らないでください。」盲人はもっともと思い、「感心だ、我が娘よ、孝女だ、我が娘よ。」と許した。

沈清はこの日から飯を乞いに出るとき、前襟のない袷(あわせ)の上着をどうにか結わえつけ、靴下もなく裸足で、破れた瓢(ひさご)に紐をつけて手に持ち、厳冬雪寒の厳しい日に寒さも知らず、家ごとに門ごとに入って切実に乞うた。「母は世を去り、私の父は目が暗くて見えぬのを、誰が御存じないでしょう。皆が少しずつ出せばよいのですから、飯一匙(ひとさじ)減らして召し上がってくだされば、目の暗い私の父が、ひもじさを免れます。」と言うと、見聞きする人々は心を動かされ、飯一匙、キムチ一皿を惜しまず与え、「食べてゆけ」と言う人があれば、沈清は言った。「寒い部屋で老いた父が待っておりますのに、私一人で食べられましょうか。早く帰って、父と一緒に食べます。」

こうしてもらって、二、三軒の飯を集めて十分になると、急いで帰って、「父上、寒く、ひもじくありませんでしたか。長くお待ちでしたね。」盲人は両手をぎゅっと握り、「手が冷たかろう。」と手を口に当ててふうふう吹き、足も冷たいとさすり、舌打ちして涙ぐみ、「あいご、あいご、不憫(ふびん)だ。つれないわが運命よ。お前に飯を乞わせて暮らせというのか。あいご、あいご、つれない命をむざむざ生きながらえて、子に苦労ばかりさせる。」沈清は深い孝心で父を慰めた。「父上、そんなことをおっしゃらないで。親をお世話し、子の孝を受けるのは、道理に当然で、人の道にかなっておりますから、そんな心配はなさらず、ご飯を召し上がってください。」と父の手を取り、「これはキムチ、これは醤油(しょうゆ)ですよ。ひもじいでしょうから、たくさん召し上がってください。」

*【真の孝と、韓民族だけの固有な孝の概念】

この場面をご覧になって、何を感じられますか。私はこの少女に、「孝をする」という意識がまったくないことを見ます。目の見えぬ父を深く愛するがゆえに、自然に体が動くのです。これが真の孝です。

ところで、韓民族のこの孝心が、どれほど特別かご存じですか。世界のどの国にも、韓国の「孝」を一対一で翻訳できる単語がありません。人工知能に「孝」を他の言語に翻訳してくれと頼むと、正確に対応する単語がない、といいます。真理を教える聖書でさえ同じです。

聖書の原文であるヘブライ語とギリシャ語では、〔(出エジプト記20:12)「あなたの父と母を敬え」、(レビ記19:3)「あなたがたは各々、その母と父を畏れ」〕のように、「孝」という語の代わりに「敬え、畏れよ、従え」という単語を使います。西欧文化では「Filial piety(フィリアル・パイエティ=子の責任)」――これらの語は、韓国的な孝とは趣(おもむき)が異なります。韓国的な孝心は、全世界で当然の言葉ではなく、韓民族固有の心性なのです。

*【生命を超えた沈清の孝誠】

沈清の様子をご覧なさい。両手を合掌して立ち上がり、天に祈る言葉、「祈ります、祈ります、天に祈ります。沈清が死ぬ事は、いささかも悲しくはなくとも、病んだ父の深い恨(ハン)を、生前に晴らそうとして、この死を受けますので、天地神明は感じ動かれて、暗い父の目を、明るく開けてくださいませ。」

孝なら、世界のどこでも親に差し上げるものではないか、とおっしゃるかもしれません。しかし、韓民族の孝心は、その深さが異なります。『沈清伝』を外国人に話すと、恐ろしいといいます。どうして父の目を開けさせようと、自分の生命まで捧げるのか、というのです。近ごろは韓国人も心性が頑(かたく)なになり、死を懸けて父の目を開けさせるのは不孝者だと、沈清の孝を貶(おとし)める人もいます。しかし天は、生命を超えた沈清の孝を通して、教えようとなさる御旨があります。沈清の孝心は、父の恨を晴らしてさしあげられないなら、子として生きても生きた甲斐(かい)がない、という孝心であり、父の恨を晴らせるなら何でもする、という心です。その生命を超えた孝心に天が感じ動かれて、目の見えぬ父の目を開けさせる奇跡のような働きが起こったのです。しかも父お一人だけが目を開いたのではなく、すべての盲人が一度に目を開く奇跡です。この箇所で外国人は皆、「Wonderful」を合唱します。韓国人の孝は本当に驚くべきだ、というのです。

この沈清の孝心は、韓民族全体の心性を凝縮した物語です。歴史学者アーノルド・トインビー博士が、韓民族の敬老文化と孝の話を聞いて、称賛を惜しまなかったといいます。韓民族の深い孝情は、この韓半島だけにとどまってはなりません。世を照らす光とならねばなりません。沈清一人の孝心が、すべての盲人の目が開く奇跡を起こしました。その愛が天を感じ動かすとき、奇跡が起こり、その奇跡は一つの家庭だけにとどまらず、全世界へと広がってゆきます。これこそが韓流の核心です。世の人々が韓国ドラマを見て、その心性に感動するのです。

*【沈清伝は実話である】

私は『沈清伝』を、初めは作り話の小説とばかり思っていました。ところが、この説教を準備しながら、一週間で『沈清伝』を三度読み、パンソリ(伝統的な語り歌)の映像も見て、沈清の孝心を思いながら過ごしました。そのある日の明け方六時、目を開けるや、清らかな心中から響きが聞こえてきました。『沈清伝は実話である。』はっと驚きました。

改めて考えてみると、『沈清伝』は驚くべき天の啓示的な小説でした。一つの村に、実際に目の見えぬ父と、賢い母、そして一人の娘がいたのでしょう。賢い母が七日で世を去り、目の見えぬ父が、血の塊のような娘を、あらゆる苦労をして育て上げました。沈清は父の目を開けさせようと、印塘水(インダンス)の人身御供(ひとみごくう)に、自ら売られていったのです。昔は人身御供が、全世界的な暗い文化でした。聖書にも、アブラハムのイサク献祭の話が出てきます。実際にそのような供物として捧げられた話が、口伝(くでん)されたのだと思います。とすれば、現世に生きて帰ってくることは不可能です。ところが、死んだのに死なずに生き返った、という言葉は何か。死んだのに死なずに生きているようだ、というのは、実際にすべての人が死ぬとき経験する、本当の体験です。沈清は孝誠を尽くして死んだのですから、当然、水中宮殿のような美しい霊界に入ったことを言っているのです。

ですから、印塘水以後の話は、霊界を現世のように描写したものです。孝女として霊界に行くと、天使たちが手厚くお仕えします。早くに亡くなった実母・玉真(オクチン)夫人とも、しばし会って抱きあって喜びますが、霊的次元が異なるので、長く共にはいられません。歳月が三年ほど流れ、目の見えぬ父も、ペンドクの母のような人にだまされて惨めに暮らし、物乞いの道で足を踏み外して水に落ち、世を去ったのでしょう。父も実に善良な方なので、極楽世界へ行かれたでしょう。そこで、胸に結んだ娘に会って目を開かれ、美しい皇宮のような所で、母娘(おやこ)で太平の世を永遠に享受された、という話です。印塘水以後を、真に迫る霊界の話として読めば、虚構ではなく実話となるのです。

『沈清伝』には、もう一つ重要な天の啓示が込められています。エデンの園でエバが堕落し、天地が暗黒に陥りました。天地を失われた神は、沈盲人のように、恨(ハン)に満ちた立場となられました。その神の解けない恨は、沈清のように生命を超えた孝情を通してのみ解ける、ということ――それがこの啓示的小説の核心です。

*【熊女(ウンニョ)から独り娘まで ~ 選民の継代(けいだい)】

檀君神話に、韓民族の母格である熊女がおられたとすれば、十六歳の孝女・沈清がおり、十六歳の烈女・成春香(ソン・チュニャン)がおり、忠節の十六歳・柳寛順(ユ・グァンスン)がおられました。皆、花のような年頃の、真の女性像です。そのような真の忠孝烈(ちゅうこうれつ)の継代の上に、独り娘・韓鶴子(ハン・ハクチャ)お母様が韓民族に生まれられ、十六歳のとき小羊(こひつじ)の婚宴によって真の父母の位に進まれたことが、目に見えない天の摂理のようだと思われます。

孝(こう)・烈(れつ)・忠(ちゅう)は、同心円のようにつながっています。最も内側の円が孝(個人)であり、その円が広がれば烈(夫婦)となります。さらに広がれば忠(国)となり、ついに聖(せい、天宙)として完成されます。その真の孝・烈・忠・聖を完成された方こそ、真の父母です。真のお母様は、孝・烈・忠を超えて、聖へと苦難に打ち勝ち、勝利されて、Holy Mother HAN(聖なる母・韓)となられることがおできになったのです。お父様の自叙伝のみ言葉を見ましょう。

(真のお父様の自叙伝より)「お母さん、私は文(ムン)某(なにがし)の息子である前に、大韓民国の息子です。大韓民国の息子である前に、世界の息子であり、天と地の息子です。彼らを先に愛してから、お母さんを愛するのが道理であると、私は知っています。私は小人物(しょうじんぶつ)の息子ではありませんから、その息子の母らしく振る舞ってください。」氷のように冷たい言葉を吐き出しましたが、母の涙を見る私の胸は、引き裂かれるように痛みました。寝ていても恋しくて目を覚ます母でありながら、弱くなる心を引き締めねばなりませんでした。

(真のお母様の自叙伝より)私は真のお父様の聖体(せいたい)の前で、「生(せい)の尽きる日まで、この地に天一国(チョニルグク)を定着させます!」と涙で誓いました。この誓いを、機会が与えられるたびに、遺言のように繰り返しました。聖和(せいわ=逝去)以後、み言葉を地の果てまで伝播し、世を抱くために、私は狂ったように東奔西走しました。口の中がただれて食事を抜き、今にも倒れそうな状況でも、一時(いっとき)も休みませんでした。

私たちは、そのような天宙史的な孝情を完成された真の父母をお迎えした祝福家庭であり、誇らしい子女たちです。

代表的に、真の子女様の中で、孝進(ヒョジン)様・興進(フンジン)様が、沈清の孝を超える模範的な孝情を示されたゆえに、天心苑(チョンシムウォン)にお祀りされているのです。

お二方は常に、遺言のようにおっしゃいました。「孝子は俺(おれ)のものだ! 親のために、いつでも喜んで死ぬ準備ができている。」そして、その誓いを実際に実践されました。

(真のお母様の自叙伝より)私たち夫婦が全国を回って勝共決起大会(しょうきょうけっきたいかい)を行うとき、「殺す」と脅迫する共産主義の追従者たちがいました。すると興進はいつも腕をまくり上げて言いました。「父を私が守ってさしあげます。」後に明らかになった事実ですが、文総裁を害そうとする不純な人々が、聴衆を装って光州(クァンジュ)の大会場に入ってきました。サタンは文総裁を目標にしましたが、その企てが崩れると、代わりに興進を犠牲の供物としました。興進は、「父を私が守ってさしあげる」と言った約束を、犠牲の供物となることによって、果たしたのです。

そしてまた、孝進様も、2008年8月の真の父母のヘリコプター事故の前に、2008年3月、真の父母の代わりに先に供物として逝かれたかのような出来事が起こりました。この部分は、多くの食口(シック)様の証(あかし)と、キム・ヨンホ映画監督の証を通して伝えられています。

このように、『沈清伝』の家庭的な孝心は、真のお父様・真のお母様・真の子女様を通して、天宙的な次元で、聖(せい)として完成されました。私たちは、そのような孝情の勝利の権威の上に立てられた、誇らしい祝福家庭です。誇りと自負心を持たねばなりません。このような生命を超えた孝情の心情と姿勢を持ってこそ、選民の中心となります。

*【沈清の孝心に倣(なら)う対話を、口に出してみる】

1. 六歳の沈清の孝心: 「烏のような鳥獣でさえ、夕方になれば食べ物をくわえてきて自分の母に食べさせるのに、まして人が鳥獣に劣りましょうか。」

2. 張(チャン)承相夫人の養女の申し出を断りながら: 「私が父をお世話するのは母を兼ねてお世話し、父が私を頼むのは息子を兼ねて頼んでおりますから、父がいなければ、私が今まで生きておりましたでしょうか。我が身の尽きるまで、末永くお仕えしようと思います。」

3. 印塘水での最後の切実な祈り: 「祈ります、祈ります、天に祈ります。沈清が死ぬ事は、いささかも悲しくはなくとも、病んだ父の深い恨(ハン)を、生前に晴らそうとして、この死を受けますので、明天(めいてん)は感じ動かれて、暗い父の目を、明るく開けてくださいませ。」

*【孝情によって完成される天宙】

この韓民族選民大叙事詩を完成する主人公は真の父母、その中でも、最後の終末の峠を越えて勝利なさらねばならない方こそ、初臨(しょりん)の独り娘、真のお母様、Holy Mother HANであられます。

最近、深刻な苦難の中でも、私たちに孝情というみ言葉を特別に強調されます。これは人間的な孝情だけでなく、天の父母様に孝情を尽くそうという教えであり、世のどの宗教にもない、ただ我々だけの固有なみ言葉です。

万行(まんぎょう)の根本は孝です。子女の孝は、親を完成させます。成熟した社会は、孝情によって完成されます。

文孝進(ムン・ヒョジン)様が常におっしゃっていたみ言葉を、口に出してみましょう。「孝子(孝女)は俺のものだ!」 うんと~

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